'10読書日記70冊目 『社会的共通資本』宇沢弘文

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)

239p
総計21447p
社会的共通資本、と言われて大体のことは想像できてしまうのだが、これは普通のことなのか、それとも腐っても経済学部生だったからか。で、だいたい想像したとおりのことなのだが、「社会的共通資本」の射程は広い。農業・都市・教育・医療・金融・環境がそれである。金融を除いて大抵のものは従来のマクロ・ミクロ経済学では考えられないもの(と筆者は言っている)であり、ヴェブレンから始まる制度経済学の考え方が適しているらしい。本書の軸としては、第一に、そのまま(つまり現行の市場経済のまま)では容易に崩壊してしまうか、現に崩壊しつつある社会的共通資本をどう保全・制度設計していくのかということ、第二に、マネタリズム新古典派新自由主義批判がある。
章立てを見ても分かるが、まず序章「ゆたかな社会とは」第一章「社会的共通資本の考え方」と最初に理論あるいは理念について語った後、それを各分野に応用していく、というものである。それゆえ、序章と第一章が極めて興味深く、おそらくポレミックだろう。端的に言って、筆者の「ゆたかな社会」観にはあまりついていけない。

ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。

さらに言えば、このような理想に賛成したとしても、それを実現するためには社会的共通資本に訴えることだけで良いのか、というのも疑問である。社会的共通資本を確保できたとして、市場経済自体が孕む問題は解決しないのではないか。
さらに、もう一つ疑問に感じるのは、社会的共通資本の管理・運営方法についてである。

社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであるということである。(…)社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて信託されているからである。(…)社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなければならない。

ここに民主主義の原理を見出すことはできない。はたして「職業的専門家」は自らの倫理観において、社会的共通資本を運営することが可能なのか。国家ないしは民間資本の圧力を容易に受けてしまわないか。また、科学や環境にまつわる「社会的共通資本」は、本当に職業的専門家だけの決定で管理・運営しても良いものなのか。