'10読書日記95冊目 『現代宗教意識論』大澤真幸

現代宗教意識論

現代宗教意識論

328p
総計29892p
「社会は宗教現象である」という序章から始まる論集。「すべての偉大な社会学者は、いずれも宗教社会学者でもあった。」ヴェーバーや、デュルケム、ジンメルなど社会学徒ではない僕でも幾人か思い浮かぶ。筆者によれば、パーソンズは「宗教が社会現象なのではない。そうではなくて、社会が宗教現象なのだ」と言ったそうである。社会が宗教現象である、ということ。このテーゼは、大澤社会学を知っている者なら、特段奇異なものでもあるまい。まさに「第三者の審級」理論は、宗教的なものが失効した近代においてその代補のために導入されたものだからだ。本書は、第一部に「原理論」を、第二部に「現代宗教論」を、第三部に「事件から」という構成を持っている。理論とその応用へと広がりを持つ。筆者はオウム事件を扱った「虚構の時代の果て」という名著をものしているが、それに対応するのが第二部である。第三部はより最近の事件、宮崎勤事件、サカキバラ事件、アキバ事件を扱っている。僕としては、書き下ろしの序章が一番興味深かった。
筆者によれば、宗教が強度を持つためには、神の現前は限りなく遅延されなければならない。神が現実世界に現象してしまう、あるいは表象されるということは、信徒らと同じ地平に神が属す可能性をはらむものであり、それは端的に神の超越性の格下げになってしまうからだ。現前の限りない遅延化は、たとえば偶像崇拝の禁止の戒律において、典型的に見られるものだ。あるいは、プロテスタントカルヴァン派)の予定説を挙げてもいい(筆者は、こちらを重要視している)。ここまでは、一般的によく知られた議論だろう。興味深いのはここからである。筆者によると、神(第三者の審級)の現象が無限に遅延されると、「信」が「知」へと転換してしまうのだという。たとえば、予定説の神は決して信者にどうすれば救済されるのかを教えない。そこで、信者は絶えざる内面的な問いかけ――神は何を欲しているのか――の溝にはまり込むことになる。そしてさらに、信じている神がいったい何を欲しているのか、このことを問い・探求していくうちに、信者が求めているものは、神が欲していることではなく、神が欲しているはずのこと、神が審理として知っていることに転換することになるのだ。
そもそも、信と知はどう違うのだろうか。どちらもある対象の妥当性に関係していることは確かだろう。しかし、知の妥当性が、認識の客観性や事実性に求められるのに対して、信はむしろ抗事実的である。信は事実には関係なく起こるものであり、ある種の決断の飛躍を伴う。それゆえ、知が事実を正しく認識することであり、事実の変化に伴って変移しなければならないのに対して、信は不変的・固定的でないといけない。ころころと時とともに移ろいゆくものに対して「信じる」ことはできない。
予定説の神を導入することによって強度をはかった宗教は、しかし、逆説的なことに信を知へと転化してしまう。神が宇宙の創始者である以上、信者は予定説の神の欲することを知るために、被造物たる宇宙の真理を探究しようとするだろう。ここにおいて、信は知へと変化する兆しをはらむ。プロテスタントは、自分が救済されているかどうかを探求しているときに、信の位相から知へのそれへと移りつつあるのだ。もう少し厳密に言えば、信はとりあえず先送りされ、知を階梯にして絶対的な信へと向かおうとするベクトルが、ここに宿っている。さきに、知は可変的であると述べたが、それは有限の人間が宇宙に内在しているために、人間の知は常に部分的・不完全にならざるをえない、ということである。しかし、神とその真理が不変なものであるのならば、人間の知は常に完全へ向かって進まねばならないだろう。それゆえ、あらゆる現時での知は「仮説」たらざるをえなくなる。仮説は新たに提示される発見などによって常に改定されていくものだ。

それは、事実上、「神の知(とされたこと)」が――権威にふさわしい――絶対的な根拠を持ちえないことを意味している。「クルアーン」のような神聖なテクストと科学的な仮説との間に、どれほど大きな権威の差があるかを考えてみればよい。科学的な仮説は、通説になっていたとしても、反証されたとたんに破棄されてしまう。それは、自体的な根拠を、つまり権威を持たないからである。

神の信を強化する作業(現象の遅延化)によって、逆説的に(信から知への移行が伴い)信へのベクトルが萎えてしまうのだ。筆者はこのような事態を、「世俗化」のひとつのアスペクトだと考えている。