'10読書日記96冊目 『フーコー・コレクション6 生政治・統治』

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金森修先生の学部生向けの講義に出たとき、おおよそ次のことを言われたのが頭に残っていた。フーコーを理解するには、思考集成を少なくとも二週くらいしないとだめです、それでも理解したとはいえないでしょうが、だいたいどんなことが言いたいか分かるようになる。僕は、少なからず今年の前半は(今でもだけれど)ミシェル・フーコーに魅せられていて、金森先生の言葉をふむふむと思って受け止めた。フーコーに惹かれたのは、金森先生の独特の語り口が非常に魅力的だったこともあるだろう。なににせよ先生は、フーコーについてかなり嬉しそうに・楽しそうに語ってられて、なお興味をそそられるというところがあった(九月くらいまでは情報学環の先輩とフーコー勉強会をやっていたこともあった)。というわけで、しかし、思考集成を全冊買うお金がない僕は、次善の策として、筑摩書房から出ているコレクション(選集)のほうをコンプリートすることに決めたのであった。
ほぼ年代順に並べられたフーコーのインタビューや論文を、順番に読んでいくと、まるで迷宮に入り込んでいくかのようであった。多少の前知識もあって(『言葉と物』『監獄の誕生』『性の歴史』を読んだということもあるが)おぼろげながら手がかりを持って、フーコーに望んだつもりだった。が、彼の複雑なエクリチュールは、僕の予備知識を放棄させ、まったくの手探り状態へと引き込むこともしばしばであった。コレクション6巻を読んだ後に、僕が率直に抱かざるを得ない感慨とは、フーコーとは一体なんだったのかということに尽きる。文学のフーコーもいれば、狂気の深淵を覗くフーコーもいる。言説の歴史をたどり、権力や性、主体について系譜学を連ねるフーコーもいる。私はハイデガーを、ニーチェを、莫大に読んできた、が、それについてはほとんど書いていないのです!、と語るフーコーもいる。統治の理性について政治学に新しい視座をもたらすかに見えるフーコーもいる。しかし、彼を全体で捉えることは極めて困難に思える。そして、僕は、フーコーの何を知っているのか、とふたたび嘆息まじりに肩をすくめる。
このコレクションは、生政治・統治とまとめられてはいるが、生政治はあまり含まれていない(というより、そもそも生政治なるものをフーコーが明示的に語ったのは『知への意志』のわずか数ページだったということを考えれば当然のことだ)。本書は、フーコーの「統治性」の議論を全面的にフューチャーしていると考えたほうが適切だろう。
僕の指導教官は、「統治性」「統治の理性」の視座が政治思想に新しい視座を提供すると考えているらしい。僕は、その見方に首肯することはできないけれど、もっともだとも考えている。長らく政治思想は権力を中心に議論を組み立ててきた。それはフーコーが言うような、関係性・ゲーム・戦略において見出される権力なのではなく、主体が把持できるような権力、それをめぐっての闘争が可能になるような権力であった。今の日本の政治学において、あるいは小沢待望論を見ても、そのような古びた主体の権力に付きまとわれていることが即座に分かる。しかし、フーコーは、統治にはかつて(16-17世紀)理性が存在した、しかもそれは全体的でありながら個別なものにまで作用する理性―統治性であったと言うのだ。
フーコーが言う統治の理性は、たとえばフランクフルト学派が批判するような道具的理性の類ではない。後者が、人間の能力としての理性を批判したのに対して(そしてハーバーマスが能力としての理性をより分けたのに対して)、フーコーが示した理性は、固体の能力としてあるのではない。むしろそれは技法としての理性とでも言うべきものだ。フーコーは、統治とは何か?という問いに対する答えとして、かつてよく語られた船の比喩を引き合いに出す。

船を統治するとはどういうことでしょうか? もちろん、それは船員たちの責を負うということですが、同時に船および積荷に責を負うことでもある。船を統治するとはまた、風、岩礁、嵐、悪天候を考慮に入れることでもある。(p253)

国家が統治に際して注意しなければならないのは、その住民全体であり、また住民個人個人であり、さらに同時に、国家の保全であり、また国家の富である。それゆえ、統治はフーコーによれば規律と政治経済学との三点セットにおいて考えられねばならない問題だった。この統治の理性は、厳密に主権の理論とは対立している。主権の理論とは「共通の善と万人の救済」を目的に持たねばならなかった。だが、

この共通の善、あるいはまた万人の救済とは、いったいどのようなものなのか。〔…〕公共の善とは、本質的には法への服従、地上における主権者の法、あるいは絶対的主権者、つまり神の法への服従のことなのです。しかし、いずれにせよ、主権の目的を性格づけているもの、この共通善、一般善とは、結局のところ絶対的服従以外の何ものでもない。これは、主権の目的が循環的であるということを意味している。(p255-256)

統治は、主権とは違って、事物の適切な配置と、住民全体への配慮を目的としてなされねばならなかったと言うのだ。統治が成功するためには、統計学やポリツァイ学が要請されるだろう。こうして、統治は、自らの目的を達成するために、自らの固有の形態の合理性を持つことになる。フーコーは、この統治性にこそ、アクチュアリティを持つものではないか、と示唆し、「国家の統治化=政府化gouvernementalisation」こそが重要なのだと言うのだ。国家の統治化は、決して社会の国家化ではなく、むしろ、国家が社会へと配慮するということ、その目的を「社会的なる者」を規定するすべてのことを管轄することに定めるという事態をさしているのだ。
このようにして、フーコーは権力とは実体を持つものではなく、人間関係において特有の形態をもって現れるものであり、そこには固有の合理性が働いているということを示そうとする。統治性・統治の理性とは、繰り返せば、人間の能力ではない。むしろそれは、カントによって批判のたずなをつけられた理性でなければならない。フーコーはカントの「啓蒙とは何かWas ist Aufklärung」について小論を書く中で、理性の私的使用を、暗に統治の理性と結びつける方向でこう書いている。カントが言う、「理性の私的使用」がなされねばならない局面は

すべて人間存在を、社会の中の個別的な線分に変えてしまう、人間は、そうしたことによって、自分自身が規則を適用し個別的な目的を追及せねばならないような限定された位置の中に置かれることになる。カントは、盲目的で愚劣な服従を実践せよと言っているのではない。そうではなく、そのような限定された状況にふさわしい理性の使用を行うべきだと述べているのだ。そして、その時には、理性は、個別的な諸目的に自己を従えるのでなければならない。したがって、そこには理性の自由な使用はないのである。(p370-371)

カントが属したドイツにおいて、ポリツァイが発展したのであった。そしてフーコーはまさにドイツ(とイタリア)において統治性が研究・発展されたと考えたのだった。理性の私的使用は、おそらく統治の合理性と相関的であろう。では、理性の公的使用とは何か。何を持って人は、全く自由に理性を使うというのだろうか。フーコーはこの問いに、ある意味で、斜めから答えようとしている。理性の公的使用、すなわち啓蒙とは、現在性=アクチュアリティへの問いに答えることだというのだ。それは現在に対するある態度であり、哲学的エートスを含意するものだ。フーコーは、そのように言った後、哲学的エートスが必然的に<批判>をもたらすだろうと述べる。しかし、その<批判>はカントがしたように、認識の限界を見定めるものではなく、むしろ今日においては反転させられなくてはならない。それは、すなわち

私たちにとって、普遍的、必然的、義務的な所与として与えられているものの間で、単独で、偶然的、そしてある種の恣意性にゆだねられているものの占める部分とはどのようなものなのか、と問うべきなのだ。(p385)

そのために、批判は、フーコーによれば、自らの経験・行為・言説の中心である主体を、どうして私たちは主体として認めるようになったのかが歴史的に研究されるという形で実行されねばならない。

この批判は、その目的性においては、<系譜学的>であり、その方法においては、<考古学的>なものなのだ。(p386)

系譜学的/考古学的の違いは、書かないでおこう。とにかく、僕はこのコレクションに収録されている「統治性」「全体的なものと個別的なもの――政治的理性批判に向けて」「啓蒙とは何か」を連続して読んでみて、ようやく「統治性」ということでフーコーが何を言いたがっていたのか、ということがおぼろげながらも分かったような気がするのである。実際のところ、僕は指導教官が「統治性」にこだわる理由もはっきりしなかったし、フーコーの「統治性」は権力論における退歩ではないのかとさえ不遜にも思っていたのだ。しかし、それらはおおよそ僕の理解不足によるものだと分かった。僕自身は、とはいえやはり、「統治性」の議論は好きではないのだとしても、これが重要な示唆を与えるかもしれない可能性だけは、なんとはなしに見えたのである。