'13読書日記19冊目 『王国と栄光』ジョルジョ・アガンベン

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

あまり読まれている感じがしないので、非常に面白かったということをアピールするために、本書を導く興味深い問いを、最初に書いておこう。

「天と地を創造する前には神は何をしていたのか? もし何もしていなかったのならば、なぜそのまま何もしないでいなかったのか?」
「権力が本質的に力であり、効果的行動であるとするならば、なぜ権力は儀礼喝采や賛美歌を受けることを必要とし、ごてごてした王冠やティアラをかぶせられることを必要とし、ややこしい式典や儀典を必要とするのか? 権力はなぜ栄光を必要とするのか?」

「オイコノミアと統治の神学的系譜学のために」と付された副題から察して、フーコーの後追いか、と侮ってはならない。強調点は「神学的」というところにあり、それは政治神学(『ホモ・サケル』で探求された)ともう一極のパラダイムをなすオイコノミア神学をたどることにある。このことから帰結する方向は、フーコーとはもはや異なるものになっているといわねばならないだろう(その可否は問わないでおく)。確かに、アガンベンは、フーコーが司牧的権力から統治理性へと一足跳びにたどった系譜学の空白、古代-中世の神学パートを中心に辿っている。しかし、その系譜学が向けられる問いは、フーコーとはもはや異なっている。フーコーが問題にしたのが権力が自らの力を執行する際のあり方、権力の機能-作動だったとすれば、アガンベンは権力そのものを成り立たせている機制を問う。
ホモ・サケル』では、フーコーの生権力の概念から出発し、主権が自らの支配の圏域を成り立たせるために標的にするhomo sacarの様態が明らかにされた。homo sacarはビオスとゾーエーの境界線において存在する。あるいは正確に言えば、homo sacarはビオス/ゾーエー、人間/動物、生きるに値する命/値しない命の境界線を引くために、常に主権によって介入される身体である。主権はhomo sacarの身体に介入し、それを「生きさせるか死の中へ廃棄する」ことでビオス/ゾーエーの境界線を絶えず引き直す。主権はビオス/ゾーエーという法-倫理の秩序を維持するために、常にその両者の間を揺れ動く身体に介入する。homo sacarは主権-法規範が常に参照せざるを得ない例外状態である。『ホモ・サケル』が提示したテーゼは一言で言えば、現代社会において我々は皆ホモ・サケルであり、現代社会は収容所の全面化である、というものである。
こうした主権とそれを成り立たせる例外状態としてのhomo sacarというパラダイムに対して、本書では権力とその執行-統治の関係が問われる。主権と、主権に基礎づけられているかに見える統治の関係を問い直し、問いなおすことで主権の存在様態を明らかにしようとするのである。フーコーが権力の作動を系譜学的に問いなおしたとすれば、アガンベンは主権の存在論を、主権を根源で規定するものを問うのである。アガンベンが、本書で提示するテーゼは、権力の根源はつねに栄光によって隠され、隠されることで栄光化され、それによってのみ権力たりえている、というものである。栄光は主権を執行することで創出された秩序の謂いであり、その秩序は主権を逆に栄光化する。ホモ・サケル/主権と同様、ここでは栄光/主権がめくるめく循環論を描いている。
ホモ・サケル』と同様に、『王国と栄光』も、シュミットの政治神学から始めるが、今度は政治神学とは別のオイコノミア神学というパラダイムがあるのではないか、というテーゼが導きの意図となる。その際、参照点となるのはシュミットと同時代のエーリク・ペーターゾンというドイツの神学者との「政治神学」をめぐる論争である。ペーターゾンはシュミットに反対し、キリスト教学における三位一体説の教義化によって政治神学のテーゼは異端的なものとして退けられると主張した。アガンベンはこの両者の対立に、単に政治神学を受け入れるかどうかというよりも、より根本的な、しかしそれゆえ表面化されない両者の前提を見ようとする。それは、カテコンkathekonという神学上の教義に関係している。カテコンはパウロの示した終末論的歴史観に登場する概念であり、キリストの到来の前に登場するはずのアンチ-キリストの到来を遅らせる何かである。やや複雑だが、終末論的にはカテコン→アンチキリスト→キリスト=救済という順番になるらしい*1。ペーターゾンとシュミットはカトリックとしてこのカテコンを暗黙に前提している。ただ、そのカテコンの捉え方、そしてそこから由来する神学的教義の解釈は異なっていく。シュミットはカテコンをキリスト教帝国に、そしてそれを絶対的な主権を持つものとして解釈するという政治神学の路線をとるが、他方ペーターゾンはカテコンをキリストを受け入れないユダヤ人として捉え、三位一体説へ向かう路線をとる。この文脈で現れるユダヤ人という言葉が持たされた含意を見逃してはいけないだろう。このように20世紀前半にナチス第三帝国を前に行われた政治神学をめぐるシュミットとペーターゾンの対立を洗い出し(寡聞にしてこの種の研究をあまりみたことがない)、そこから遡って三位説に現れる、ペーターゾンが隠そうとしても隠しきれなかった政治神学とは異なるパラダイム、オイコノミア神学の系譜が辿られることになる。
アリストテレスを含めたギリシアのオイコノミア概念は、もともとは秩序、執行というような意味はなかったのにもかかわらず、神学、とりわけ三位一体説をまつわる古代から中世の神学の議論の中で、パウロの「神秘のオイコノミア」が「オイコノミアの神秘」へ変換されていく。神秘のオイコノミアが文字上意味するのは、天上の父なる神の摂理を、子なるキリストが地上において実行したという程度の意味なのだが、それが三位一体説において、とりわけマニ教との対決において、オイコノミア自体にも神秘が宿る、という風に解釈されていくことになる。オイコノミアには摂理の執行にくわえて、執行の結果生じる秩序という意味も含意される。秩序は、キリスト教世界において「存在の大いなる連鎖」を、つまりすべての存在者を絶対的な神からもっとも低級な存在者まで位階づけるあり方を意味した。問題となってくるのは、神と神の摂理を実行する天使、そして人間の関係である。アガンベンは、絶対的な栄光の彼方にありすべての第一原因である神とその神の摂理を執行する天使の関係が、中世の絶対主義的主権論における主権と統治の関係の比喩となり、また後者が同時に前者の比喩として用いられているということ、そしてそれら2つは比喩以上の密接な結び付きを持つということを立証しようとしている。
壮大な歴史的研究である。アガンベンの、共和主義的伝統はオイコノミアの伝統を全く見ない、という揶揄はけっこう重要なのじゃないかな。(彼のこうした系譜学的研究から出てくる現代への診断は、いまいち乗れず)。

*1:長尾龍一さんの解説は神学的議論をほとんどさらっていないけど、少しだけカテコンについて書かれているhttp://book.geocities.jp/ruichi_nagao/HobbesSchmitt.html