'12読書日記12冊目 『啓蒙の民主制理論 カントとのつながりで』インゲボルク・マウス

啓蒙の民主制理論―カントとのつながりで (叢書・ウニベルシタス)

啓蒙の民主制理論―カントとのつながりで (叢書・ウニベルシタス)

377p
総計3368p
カントの民主主義理論についてのかなり専門的で詳細な研究書ではあるが、原題は「民主主義理論の啓蒙のために」という風になっており、カントの共和制のポテンシャルを現代的なコンテクストの問題を通じて明らかにしていく。本書の議論は非常に丁寧である。が、しかし、非常に硬質で難解な文章によってすらすらと読めるわけではない。どだい、憲法学・法哲学プロパーの人の文章は、なんだか漢字がいっぱいで僕は苦手なのだ。
カント哲学の用語はそれ自体で特別な意味合いを持つものが多いが、政治哲学においてもそうである。例えば、簡単に思いつくものをあげてみれば、カントは「民主制」を忌避する。また、カントの「根源的契約」というアイデアには契約的な要素は一切ない。「代議制」は代表議会制ではない。これらの言葉を文字通り受け取るとするならば、カントが哲学的には革命的でありながら政治的には保守主義であり、当時のプロイセン絶対主義の擁護者であった、などという誤解が生じる。そうした誤解は、さらに、カントが抵抗権・革命権を明確に否定し、専制君主制を許容したということ(これまた文面の表面的な解釈であるのだが)によって増幅される。
さて、そうしたカントの保守的解釈を、ハーバーマスとも近いインゲボルク・マウスは次々と否定していくのである。『覚書Reflextionen』などの細かいテクストをきちんと引用して、カントの政治哲学を体系的に再構築することに成功していると言える(そもそもカントはまとまった形で政治哲学を残さなかった。『人倫の形而上学・法論』くらい)。
白眉の一つとなるのは、カントの抵抗権の否定をとりあげてカントの保守性を云々する議論が陥っている「契約思想にきわめて特有の再封建化」を指摘するところである。マウスによれば、そもそも抵抗権という発想は、中世の君主討伐論(モナルコマキ)の学説に由来するものである。人々と支配者が統治契約(服従契約)を結ぶが、支配者がもしその契約に違反するような統治を行うのであればその契約を破棄する権利を人々は持つ。しかし、ルソーやカントはそうした服従契約そのものを退ける。服従契約は人民が支配者に統治を引き受けさせる事態を意味するが、ルソーやカントが目指したもの(そこにロックも加えることが当然できるが)は、国民主権そのものなのである。カントの定式化によれば、人々が市民体制を樹立するのはその法の下でのみ人々の外的な自由(内的自律ではない)が両立するからであり、なんらの具体的な内容を含むものではない。また、市民体制において人々の外的自由が法と一致するのは、立法を行う主権を持つのが人々であるからにほかならない。主権者は、人々が契約を交わした支配者なのではなく、人々=市民自身なのである。カントはこのような市民体制を共和制と呼び、共和的市民体制を創設しようとする人々の意志(ルソーの一般意志に対応する)を「根源的契約」と呼んだ。根源的契約は「契約」という言葉を持ちながら、人々の主権への意志の結合状態を意味するのであり、この根源的契約がなければ立法行為を行うことなどできないのである。つまり、それは公的な契約(立法)に論理的に先行するものなのである。
カントが抵抗権や革命権を否定するのは、こうした原理論を念頭においているからである。根源的契約に淵源を持つ公法一般の中に、抵抗権や革命権を認めるとすればどうだろうか。市民の普遍的な意志が具現化された公法が「人々は法が権利を侵害するなら、その法に抵抗しても良い」などという権利を持つのは、端的に自己矛盾にすぎない。というのも、そもそも共和的市民体制では公法において市民の意志が実現しているのであるから、それが人々の権利を侵害することなどありえないのである。カントにおいて根源的契約は、市民状態がいかにあるべきかについての説明原理なのだ。それはそもそも、統治を支配者と契約する服従契約でもなければ、契約でさえないのである。それゆえ、そうしたカントの議論に「抵抗権」が見出せないことをもって、彼に保守主義のレッテルを貼る現代の論者こそ「再封建化」していると言わざるをえないのだ。
市民が立法権を持つ主権者であるような共和制は、カントによってさらに重要な要素を持たされている。共和制は、「代議制」を持たねばならない、とカントは言う。ややこしい話だが、それは現代思われているような議会制を意味しない。単純に言えば、カントが言う「代議制」は、執行権(統治権)と立法権を分離して持っているような統治原理なのだ。根源的契約によって公法の普遍性が担保されるが、もし立法的な主権者である人民すべてが同時に執行権を持っているとしたらどうか。その時には、法を自分で措定して自分に適用するという自己循環的で恣意性を帯びた状態になるだろう。そして、その立法権と執行権をすべての人民が同時に持つ政体をこそカントは「民主制」と呼んで、忌避するのである。反対に、代議制を持つ共和制は、根源的契約が具体化した公法を執行する権力を、根源的契約の担い手である主権からは分離し、後者を前者に強く従属させる。その意味で統治者は、主権者である人民の単なる代表にすぎない。
こうしたカントの議論を、マウスは、様々な保守的な解釈者を退けつつ説得的に展開していく。非常に勉強になったのは、第八章「国民主権、および実体法と超実体法との関係」。カントは自然法則と区別される法則を全て「道徳」と呼ぶが、そこには法と倫理が含まれている(『法の形而上学』)。さらに法は私法と公法に分かれているのだが、そこに自然法の議論も絡んできて錯綜とした印象を受ける。これについてマウスは次のように整理してくれている。

法と倫理の上位概念としての「道徳(Moral)」に帰属している広義の定言命法(「その人の選択意志の自由が、誰の自由とも普遍的法則にしたがって両立できるならば、それは正しい」)と、もっぱら倫理に帰属している協議の定言命法との間は区別されており〔…〕カントは一般に実践哲学の対象を、つまり法哲学と道徳哲学との対象である一切の「自由の法則」を、ひとまとめにして諸自然法則と区別して「道徳的(moralisch)」と呼ぶのである。〔…〕自然法が「私法」と「公法」とに対する上位概念を与える先の図式と同じ役割〔…である〕。
〔…〕倫理的手続きが本質的に独白的であるのは、倫理では普遍的法則が「汝自身の意志の法則」と考えられていることによる。それに対して、法的立法は全国民の意志に基づき、その意志は自分の正当化を普遍的自由法則から直接受け取るのである。

なーーるほど。カントはやっぱりすごく体系的だ、と納得。
マウス自身の民主主義理論にも言及したい点はいくつかあったが、今日はこれで力尽きる。