'11読書日記17冊目 『生政治の誕生』ミシェル・フーコー

414p
総計4811p
講義集成はフーコーが極めて分かりやすく語ってくれているので貴重なのであるが、5500円という値段に涙が出る。しかし、にしても、とにかくこの1978-79年度の講義は、必読である。フーコーが彼には珍しく現代史を、特にドイツ・アメリカ・フランスの「新自由主義」について語っているのだ。しかし、それは副次的なものであり、問題は自由主義的統治術の系譜学を、より一般的にいうならば、自由主義ないし経済学の系譜学を扱っており、政治学に対して「王の首を切り落とす」ことを理論的に要請していることこそを学ぶべきなのだ。
ドイツのオルドー・リベラリズムの分析で言われていることは、戦後の荒廃――国家の失効状態――において以下に国家を正当化できるのか、国際社会にドイツが復活できるのかという中で、経済と国家の関係性が模索される。戦後ドイツでは、国家を正当化することができるのは、経済的自由を前提とし、国家がそれに絶えず条件付けられるという限りだったのだ。ドイツにおける新自由主義からアメリカへと分析を移していき、いよいよここにおいて、新自由主義的統治術、ないしは統治の可能を保証する新自由主義的な真理/知の理解可能性に話が及ぶ。そこで理解可能性の枠組みをなすのは、ホモ・エコノミクス=経済的人間である。ホモ・エコノミクスの枠組みを通すことで、新自由主義的統治は「個人」をその生の隅から隅まで――出産・結婚・教育・犯罪にいたるまで――を取り扱うことができるのだ。ホモ・エコノミクスに賭けられているのは、個人の合理的選択能力である。アメリカの新自由主義的経済学(シカゴ学派ら)を参照した後、しかしながら、フーコーはその分析の対象を一気に18Cへと引き戻す。本書のタイトル「生政治の誕生」とは裏腹に、生政治はそれほど明確に語られない、いやむしろ全然主題化されない。それは一種の裏テーマとしてある。
本題は、ホモ・エコノミクスの系譜学であり、ホモ・エコノミクスの誕生がそれまでの法学の言語にいかに挑戦するものであるのかを示すことなのだ。フーコーによれば、ホモ・エコノミクスの登場する場は、経済学と法学が複合的に現れるところ、すなわち「市民社会」である。ファーガソンを参照しつつ、フーコーが目論むのは、まさに伝統的政治学が対象としてきた、あるいはマルクス主義的な権力観への挑戦と、その理論的失効にほかならない。ファーガソンは、フーコーによれば、自然状態/社会状態の区別よりさきに、常にすでに「市民社会」があったのだということ、そしてそこでは権力は事実としてすでに存在したということ、これである。

権力が規則付けられる以前、権力が委託される以前、権力が法的に打ち立てられる以前に、権力はすでに存在していたのだということ。[…]権力の法的構造は、常に事後的に、遅ればせに、権力の事実そのものより後にやってくるのだということです。[…]実際には市民社会は、絶えず、最初から、市民社会の条件でもなければそれに追加されるものでもないような一つの権力を分泌するのだということ。(pp374-375)

それゆえ、フーコーにとって市民社会は、権力の相関物であり、また言い換えれば、自由主義的統治のコインの裏面であるということになる。

市民社会、それは、狂気のようなものであり、セクシュアリティのようなものです。それは、相互作用による現実と呼べるようなものです。すなわち、権力の諸関係とそうした諸関係から絶えず逃れるものとのあいだの作用から、いわば統治者と被統治者との境界面に、相互作用的で過渡的な諸形象が生まれるのであり、この諸形象が、いつの時にも存在してきたというわけではないにせよ、それでもやはり現実的なものとして、今の場合には市民社会、別の場合には狂気などと呼ばれうるのだということです。(p366)

ところで、本書を、左翼的な関心をもつ人が読む場合――僕がそうだったが――疑問として残るのは、フーコー新自由主義ないしは生政治に対するスタンスである。フーコーが語るオルドー・リベラリズムアメリカの新自由主義は、極めて面白いのだ。フーコーは、系譜学者としてそこに眼に見える形で、顕在化した批判を加えることを抑制している。マルクス主義者のような批判に陥らないように、系譜学を語ろうとする。この新自由主義へのフーコーの立ち位置は、一見曖昧だ。だが、フーコーがある時「政治的理性批判」あるいは「統治理性批判」ということを語っていたことを思い出したほうがいいのだろう。(左翼バイアスがかかりすぎているかもしれないが)フーコーは、新自由主義への批判の難しさというものに気づいており、それはもちろんマルクス主義的-左翼的な批判の不可能を意味しているのであり、新自由主義批判を練りあげるために、このような新自由主義的経済学ないしはホモ・エコノミクスの系譜学を目論んだのではないだろうか。伝統的な左翼的批判は、新自由主義ないしはホモ・エコノミクスの登場によって変転された場――そこは主権や誰かが保持する権力が立ち入れない領域でありむしろ全体性への断念を積極的に把持し続けること、合理性こそが賭けられている場であるということ――を無視しており、有効性を持たない。フーコーが一連の講義の最後に、駆け足で述べること、これをわれわれは再確認せねばならないのではないか。

結局、政治とは何でしょうか、もしそれが、さまざまに異なる統治術の作用であると同時に、そうしたさまざまに異なる統治術が引き起こす論議でないとしたら。政治はここに生まれるのだと、私には思われます。(p385)

われわれは、この「政治」を見定めるほかはないのではないか?