'13読書日記36冊目 『ニコマコス倫理学』アリストテレス

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

とりわけ面白いのは、『倫理学』と誤解を招く表現で伝承されているこのテクストは、政治家の徳のあり方を描くことを大きな目標の一つに掲げているということである。それゆえ、『ニコマコス倫理学』は政治に関する議論のつきせぬ厳選の一つで在り続けてきた。
アリストテレス受容史ということだけでえらく膨大な話題になるのだけれど、政治思想史について考えてみたとき興味深いのは、古典的共和主義へのアリストテレスの影響に加えて、いわばその真裏で主権論にどのようにアリストテレスが組み込まれていったのかということである。前者について言えば、ポリティア及び混合政体の議論が市民と政治的徳(=卓越性)、自律、腐敗などの語彙に影響を与えた。他方で、とりわけ近世ドイツの主権論の文脈でも、一見そう思われるようなプラトンの『国家』ではなく『ニコマコス倫理学』が大きな影響を持って議論に組み入れられていく。そこでは、言わば誤読・誇張的読解・イデオロギー的読解の歴史が織りなされることになる。主権が神の代理人として正当化される文脈において、マキアヴェリが「マキアヴェリズム」という際立って権謀術数を強調した形で政治と同一視される一方で、ドイツのプロテスタンティズムマキアヴェリに対して『ニコマコス倫理学』の政治家でもって主権を制限しようとする。主権の絶大な力は、マキアヴェリの国家理性によって正当化されたのではなく、当初はむしろそれに反発するように、主権は民衆の健康と安全を保証することができるがゆえに正当化された。ここにおいて、主権論のなかにそれとは区別される形で統治論――いかに権力を用いるのか、いかに統治するのか――が現れてくる。つまり、『ニコマコス倫理学』に暗黙にも明白にも依拠しつつ、政治家は国家の共通善を保証することができる倫理的卓越性を持つべきであり、その際に統治には知慮(フロネーシス、Klugheit)が必要だと議論されたのである。政治と公共善という共通の土台を提供しつつも、アリストテレスは古典的共和主義と主権論・統治論という二つの重なるところはありながらも別の文脈に流れ込んでいるようなのだ。