'13読書日記35冊目 『政治神学』カール・シュミット

政治神学

政治神学

208p
シュミットの論文自体は短くて、本文の半分以上がカール・レーヴィットのシュミット批判を占めている(『シュミットの機会原因論的決定主義』、『ヴェーバーとシュミット』)。レーヴィットの批判はごくまっとうで、簡便にまとめるなら、シュミットは、決断のみを無内容に空虚に称揚し――それはシュミットが批判してやまなかった政治的ロマン主義の機会主義と類似している――、単なる心情倫理に堕してしまっているというものだ。僕の大学院の先生が、同様の批判を「政権交代政治学」に対して行っていたことを思い出しもした。
シュミットの論文に続けてレーヴィットを読めば、完膚なきまでに批判されてしまったシュミットのイメージが出来上がってしまいそうになるが、やはり色々面白いことを言っていると思う。そもそも「政治神学」というタイトルからして即座の理解を拒むところがある。「主権者とは、例外状況に関して決定を下す者を言う」という有名なテーゼが、なぜ「政治神学」のもとで論じられなければならないのか。この本を読んだだけではおよそ分からないシュミットのカトリシズムについては、アガンベンが『王国と栄光』のなかで詳しく論じている。当時のドイツにおけるシュミットが提起した政治神学は、まさに神学者たちとの論争を巻き起こしシュミット自身『政治神学Ⅱ』を書いてそれに応答した。
王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

王国と栄光 オイコノミアと統治の神学的系譜学のために

彼自身の宗教的なコンテクストを度外視して本文を読んでみれば、政治神学というテーゼは――意外なことにも――政治学あるいは法学のために提起されているのではなく、「社会学」のために提起されていることが分かる。

現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である。…この構成の認識こそが、これら諸概念の社会学的考察のためには不可欠のものである。

更に続けてシュミットの不可解な言葉は続く。

例外状況は、法律学にとって、神学にとっての奇跡と類似の意味を持つ。このような類似関係を意識してはじめて、ここ数百年間における国家哲学上の諸理念の発展が認識されるのである。なぜなら、現代の法治国家の理念は、理神論、すなわち、奇跡を世界から追放し、奇跡の概念に含まれている自然法則の中断、つまり直接介入による例外の設定を…拒否する神学および形而上学、を踏まえつつ確立してきたのである。

こうした文章を理解するためには、キリスト教、とりわけカトリックにおける奇蹟がどのような位置を持っているのか――神と世界、奇蹟と自然の関係はどうなっているのか――を理解する必要があるだろう。にもかかわらず、シュミットはこれ以上この奇跡については述べてはいないのである。ともあれシュミットは法律学と神学が類似した構成を持つということを主張する。この根拠さえ明瞭には理解し難いものであるが、次の言葉が手がかりになりそうである。神学と法律学の「両者はともに二重の原理を持つ。理(そのゆえに自然神学が存在し、自然法学が存在する)と書、すなわち実定的な啓示と指示の書、とがそれである」。つまり、法学にも神学にも、理=啓示/指示という対立項が見られるというのだ。この対立項がより法学的に表現されるときには、「法の実体と執行との区別」に引き写される。シュミットによればこの区別は「主権概念の教義史上、基本的な意味を持つ」ものである。
こうした主権概念を正しく理解するために必要とされるものこそ、社会学、とりわけ「概念の社会学」である。シュミット曰く概念の社会学は、現在の言葉遣いで言えばいわゆる知識社会学マルクス主義的な唯物論とは違っている。長くなるが引用しよう。コゼレックらの概念史へと続くであろう重要な――しかしかなり問題含みの――考え方が伺える。

この[概念の]社会学には、法生活のもっとも身近な実用的利益を志向する法律学的概念性を越えでて、究極的な、徹底的に体系的な構造を発見し、かつ、この概念構造を、特定の時期の社会構造による概念的変容と比較する、ということが含まれている。ここでいう、徹底的な概念性という理念的なものが、社会的現実の反映であるか、あるいは社会的現実が、一定の思考様式、したがってまた行動様式としてとらえられるものなのかは、このさい問題とならない。むしろ、精神的でありながらも実質的なふたつの同一物が立証されなければならないのである。したがってたとえば、十七世紀の君主制が、デカルト流の神の概念に「投影された」現実である、というばあい、それは、主権概念の社会学ではない。むしろ、君主制の歴史的-政治的存立が、西ヨーロッパの人間の当時の総体的な意識状況に対応していたこと、そして歴史的-政治的現実の法律学的形態化が、形而上学的概念と合致する構造を持つ、ひとつの概念を発見し得たこと、を示すのが、かの時期の主権概念の社会学に属するのである。…特定の時代が構築する形而上学的世界像は、その政治的組織の形式として簡単に理解されているものと、その構造を等しくする。このような同一性の確認こそが、主権概念の社会学なのである。