'11読書日記1冊目 『リハビリの夜』熊谷晋一郎

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)

255p
2011年一発目は、本当に素晴らしい本から始めよう。
本書は、脳性まひの当事者によるルポルタージュである。だが、体験談に終始するのではなく、その体験を理論的に再構築してあり、そこには学ぶべきものが多い。もちろんつまらない空理空論に終わるのではなく、また脳性まひの当事者だけが感じるであろう特殊性に閉じられたものでもなく、本書は、僕のような「健常者」でも納得のいく身体理論を展開している。さらに言えば、筆者は、僕らが普段何気なく感じていながらも言葉にしがたい感覚を、脳性まひという限定された領域からえぐりだして見せるのだ。本書は、脳性まひ当事者のリハビリ、性、日常について広く議論が展開されるのだが、その最大の到達点はなんといっても「自由」の概念の刷新にある。筆者は、自らの身体を考察することで、人間すべての身体が抱える「不自由」を、社会の「自由」へのステッピングストーンとして位置づけようとするのだ。優れた本の多くがそうであるように、本書は極めて理論的でありながら、同時に情動的であり、僕は一読した電車の中で泣きそうになってしまった。だが僕のセンチメンタルはどうでもよく、ともかく、大絶賛するよりほかはない本である。
「リハビリの夜」とつけられたタイトルは、この本のすべてと言っていいほど、含意に富む。そこには、まず、脳性まひの人らが受けるリハビリにおいて、リハビリのトレイナーが孕みがちな規律訓練的な権力のまなざしに対する批判がある。リハビリのプロセスは、脳性まひ患者の「異常」な身体の運動を、「健常」な身体運動へと矯正-強制することに目標に置かれている。しかし、筆者が身をもって体験してきたように、そうした規範的なまなざしは、完全には患者の身体に内面化-具現化されることはない。しかし、それとはお構いなしに、リハビリの過程では、規範的な運動を達成できない身体に対して、なおそれでも規範的運動を強制する介入がある。ここにおいて、リハビリは暴力性を帯び始める。つまり、当初、患者に対して規範のまなざしを向けるリハビリ過程はトレイナーとトレイニー(患者)との間に≪まなざし/まなざされる≫関係を取り結ぶだけなのだが、それはトレイナーがトレイニーに規範的な身体運動を物理的に強要することで≪加害/被害≫の関係へと容易に変貌してしまうというのだ。ここにおいて、規範を内面化-具現化することができない患者の身体は規範に対して「敗北」することになる。筆者は、この「敗北」の感覚にある種の官能性があるのではないかと推測し(これを筆者はバタイユの議論などを引きつつ論じている)、それを「敗北の官能」と呼ぶ。この「敗北の官能」は、リハビリが終了し、規範的なまなざしの視線が届かない「リハビリの夜」に、筆者の身体内部の感覚にじりじりと熱を帯びてよみがえることになる。それはもちろん性的な欲望を喚起させるものでもあり、筆者はその官能に「耽る」ことが何度もあったというのだ。リハビリの規範的・超越的なまなざしからの解放は、同時に「敗北の官能」の誘発でもある。
この「敗北の官能」とは、しかし、両義的である。規範から解放される「リハビリの夜」に、「敗北の官能」を享受することは、ある意味で規範に対する反逆でもあるだろう。だが、その反逆-敗北の官能性に耽っているだけでは、つまり「敗北」しているだけでは、脳性まひ患者の「自立」はありえない。「敗北」を認めることは、規範運動を取り込むことの拒否でもあるが、そこからは新しい事態は生まれてこないのだ。そこで、筆者が注目するのが≪ほどきつつ拾いあう≫関係である。脳性まひ患者の身体は、「健常」な人のそれに比べて、身体の緊張度が高い。だが、リハビリの前に、トレイナーからストレッチを施されるとき、身体の緊張度は一気に融解し、緊張度ゼロのぐにゃぐにゃ状態に至ることがあるのだという。そこでは、緊張が「ほどかれ」、患者に触れるトレイナーの身体と、患者の身体が融解するような感覚が得られるのだという。緊張が「ほどかれ」た身体は、トレイナーの身体に「拾われ」、新しい関係性が生まれる可能性があるのだ。この≪ほどきつつ拾いあう≫関係は、規範的・超越的なまなざしを内面化しようとするリハビリとは違って、脳性まひ患者の身体から、新しい規範を立ち上げようとするプロセスだといっていい。ほどけきった身体に、超越的規範をあてがうのではなく、その身体にちょうどいい適した規範を探ることこそが重要なのだ。
このことは、僕らがともすれば忘れがちなことを、しっかりと再確認させるだろう。つまり、僕ら「健常者」は、身体障害者の「障害」性を哀れなものであり、リハビリによって「健常」なものに近付けてあげようと考えがちだ。だが、事実は、全く逆である。身体障害者が「障害」を持つのは、多数派に暮らしやすいようにつくられた社会構造に、「障害者」が適応することができないからなのだ。それゆえ、大切なことは、障害者を健常なものにすることではなく、逆に、社会構造を「健常」なものにすることである。適応を強制するのではなく、適応することができな人々を造りだした社会構造そのものを問うこと、これが決して忘れられてはならないことなのだ。おそらく筆者は、障害からの「解放」などというユートピアを望んでいるのではない。「解放」は、規範的・超越的権力があるからこそありえる「かのように」見えるものであり、実際に「解放」された身体が行くあてなどはない。そうではなく、規範に「敗北」することを肯定的に認め、その敗北し緊張度がゼロになってしまった身体から、新しい関係性へと進むこと、これこそが目指すべきところなのだろう(たとえば、筆者は障害者の性の解放にも懐疑的である)。本書は、脳性まひという特殊な「障害」に対しての理解を深めさせてくれるだけではない。それだけではなく、この社会で生きる上で適応・強制されてきた様々な規範にたいして、僕らが「敗北」してもよいのだ、そしてその敗北から何か立ち上がる関係性、ほどかれて拾いあうような関係性をこそ、求めなければならないのだ、ということを優しく教えてくれるのでもある。