'11読書日記2冊目 『機械・春は馬車に乗って』横光利一

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)

347p
総計602p
母親が、横光利一の「機械」は素晴らしいと常々言っていて、ようやく読んだ。新感覚派と呼ばれるだけあって、随所にみずみずしい形容詞や比喩が並ぶ。簡素でありながら、詩的で色彩豊かな印象を受けた。それでいながら、裏側では相当な葛藤(西洋との葛藤もひとつのモチーフである)が見え隠れしていて、恐ろしい小説家だとも感じた。だが、その葛藤は、俯瞰されて描かれる局面では、薄ら笑いのユーモアへと転じることもある。ユーモアと葛藤を行き来して、短編はさまざまな側面を帯び始める。
たとえば、「機械」の最後の一節。狂気と正気のぎりぎりのラインへと邁進していくようにして、それは幕を閉じる。壮絶としか言いようがない。

私はもう私が分からなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代わって私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

この壮絶な文章も、しかし、幾分のユーモアと裏腹であろう。悲痛な叫びは、同時に一種の笑いを誘わずにはいないだろう。
あるいは、こちらも鋭くペーソスとユーモアに満ちた「春は馬車に乗って」。病床にある妻が、看病にいそしむ夫に語る。それを夫はどう受け取るか。

「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂戴」
彼は黙って了った。――事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った。

切実ながらじつに愉快であることは間違いがない。このように作者は揺れる。ゆれながら私的な表現をつむぎだし、油断をさせない。西洋と日本人の葛藤を、直裁的に描いた「厨房日記」の引用で、このレビューを締めよう。視点人物である梶は、ヨーロッパ見物の後、帰ってきて妻と温泉町で養生している。が、そこで彼は自分と日本を問い直さざるを得なくなる。

「いったい、どこを自分はうろうろしているのだろう。この自分の坐っている所は、こりゃ何という所だろう。」
梶は浦島太郎のように妻子の前であるにも拘らず、ときどき左右をきょろきょろ見廻した。全く自分の見てきたものも知らずにまだ前と同じ良人だと自分を思っている妻の芳江が、このときなんとなく梶には憐れに見えてならなかった。
「お前はいったい何者だ」