11'読書日記7冊目 『「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学』大澤真幸

「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書)

「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学 (NHK出版新書)

288p
総計2315p
去年から多作ぶりを遺憾なく発揮している大澤真幸先生であるが、僕は本書が一番のお気に入りになった(『現代宗教意識論』も捨てがたいけれど)。表面的なことから言えば、叙述が「です、ます」調、講義口調で進められる(実際、NHK出版の会議室でおこなわれた講義をもとにしてある)ため、非常に読みやすい。筆者の声が聞こえるようでもあり、あの講義の(きっと筆者の講義を聞いたことがある人はわかるであろう)わくわく感というか高揚感、スリルが感じられるのだ。内容については、あの昨年のサンデル大流行を受けて、大澤流に政治哲学上の正義論が整理・批判し、独自の見方を打ち出すというもの。功利主義からはじまり、リベラリズムロールズをもう少し扱って欲しかった気もするが)、コミュニタリアニズムへと進み、最後に筆者の考えるリベラリズムが提示される。「講義」の体裁であり、様々なエピソードが引き合いに出されるので、初学者や当該分野に興味がなくても十分に楽しめること、これは間違いがない。
特徴はいくつかある。その大きな一つは、サンデルらコミュニタリアニズムへの批判である。コミュニタリアニズムにはいくつか特徴があるが、とりわけ大きいのは、共同体が持つ目的論的な善に個人が規定されているという点であろう。アリストテレスから目的論の議論を受け継いで、実際、マッキンタイアやサンデルなどは、自らの生を「物語」として受け止めている。個人は浮遊し負荷なきものではなく、歴史や共同体という「物語」の中で役柄を割り振られている、というのだ。それはリベラリズム批判の文脈で出されたものであり、リベラリズムは負荷なき個人を想定しているがゆえに、善の問題(同性愛とか文化など)については不能だ、というのがコミュニタリアニズムの言うところである。
だが、筆者は、この「物語」という想定は、現代では時代遅れ/不可能だと批判する。『不可能性の時代』の中では、超越的な規範が不可能になり、「現実的なるもの」に執着するようになる現代が社会学的に摘出されていた。その議論を受け継ぎながら、しかしさらに原理的に現代(というより幅広く近代)を捉えたときに、コミュニタリアニズムはある決定的な社会の構造を見逃しているのである。
それは、〈資本〉のメカニズムにほかならない。資本とは、マルクス主義風に言えば、剰余価値を生み出すものである。資本主義においては、貨幣はただ退蔵されるだけでは〈資本〉にはならない。それはさらに投資され、剰余価値を生み出す限りで〈資本〉になるのである。つまり、獲得した貨幣を消費してしまったりせずに、それをさらなる利潤獲得のために投資する必要がある。そのさらなる投資は、止むことがない。これが資本主義の根本的でもっとも単純なメカニズムである。そこで、この投資において何が起きているのかを考えてみれば、ウェーバープロテスタントに見たような禁欲が現れているのがわかるだろう。すなわち、何らかにおいて獲得した貨幣は、ただちに消費されれば純粋な快楽につながる。が、その消費は、より高次の快から見れば、言い換えれば、さらに投資して利潤を拡大するという快から見れば、たいしたことではなくなってしまう。つまり、〈資本〉のメカニズムの中では、消費(でも貯蓄でもいいが)の一次的な快は、より高次の投資の視点によって、相対化される、あるいはむしろ苦に転落してしまわざるをえない。世俗内禁欲が、資本のメカニズムへいたる、ということはこのことである。
とすれば、コミュニタリアニズムが措定した「物語」、あるいはアリストテレスの目的論は、資本主義によってまさに否定されていることになる。というのも、共同体・歴史などに固有の最高善があるという考えからすれば、自分の人生の選択をその善に配慮しながら生きねばならないということになるが、資本主義のもとに生きる以上、そのような善は、つねに相対化されていかざるをえないからだ。大澤社会学が長く論じてきたことだが、資本主義のもとでは、常に未来の快を考えねばならず、その連鎖は終わることがない。それゆえ、未来の快そのものの内容がどんどん抽象化され、その果てに快自体が不可能であるという事態が来る。快を超越的な規範(第三者の審級)に置き換えても良い。とにかく、コミュニタリアニズムが見誤っているのは、そうした「物語」に固有の善が、常に相対化されてしまい、もはや物語の中に事故を位置づけることが不可能となってしまった現代の社会構造であるのだ。
僕が好きなのは、こうした議論もさることながら、筆者が新しいところへと議論を伸ばしていこうとするその身振りである。筆者は、リベラリズムを刷新しようと試みる。端的に言えば、その特徴は(1)コミュニタリアンの逆手を取るようなところに普遍性を見出し(2)過去を変えるものとしての自由な選択、の二点にある。その議論が十分にうまくいっているとは思えない――筆者も現実的な目線でそのあたりを見ている――が、新しく社会構想をするということを果敢に挑む筆者に僕は魅了される。筆者にしては珍しく、自嘲的な(といっても見苦しいそれではなく、本当に講義の時の楽しいものであるが)ところもあって、ユーモアにも事欠かない。素晴らしい読み物だと、僕は思う。