'11読書日記8冊目 『父と暮せば』井上ひさし

父と暮せば (新潮文庫)

父と暮せば (新潮文庫)

126p
総計2441p
久しぶりに井上ひさしを読みたくなって、遺著『一週間』とともにアマゾンでぽちり。ごく短い戯曲だったが、心に染みた。思えば、井上ひさしを読むのは、中学の時に『吉里吉里人』を読んで以来だ。物語の舞台は、1948年の広島。登場人物は二人だけ。図書館で司書をする23歳の美津江と彼女の父親・竹造だ。美津江は原爆の生存者であり、当然被爆者である。味のある広島弁のセリフ回しが飽きさせないし、僕が関西に住んでいたということもあるのだが、生身に迫ってくるような感じがある。二人のやりとりも、それゆえに漫才風味でずいぶん笑えるのだ。
ある時、学者で原爆のことに興味を持って図書館を訪ねてくる木下という青年と恋に落ちるのだが、そのとき、美津江の中に葛藤が生まれる。それは、幸せになりたいという想いと、なってはいけないという自己抑制の間での葛藤だ。どうして、彼女はそのように自分を抑制するのか。竹造は、彼女の「恋の応援団長」として、幸せになればいい、と言い聞かせる。だが、彼女はなかなか自分で幸せになろうという決意には至らない。父は、どうして幸せになろうとしないのかと問いただす。彼女は、被爆者で、いつ原爆病が再発するか分からないからか、結婚したとしても子供にもそれが遺伝するからなのか。
違う。それは、彼女が深い偶有性の感覚に付きまとわれているからだ。偶有性、それはすなわち、自分がどうしてあの時原爆で死んでしまわずに生き残ったのか、自分よりも生き残っておくべき人がどうして死んでしまったのか、という強い自責の念である。
(以下ネタバレ)

あんときの広島では死ぬるんが自然で、生きのこるんが不自然なことやったんじゃ。そいじゃけえ、うちが生きとるんはおかしい。

自分の生が偶有的なものであるという感覚こそが、彼女の葛藤の深い内因になっていたのだ。その葛藤が、父・竹造の言葉によって解きほぐされるシーンは非常に感動的だ。その感動は、ネタバレしてしまえば、彼がもはやこの世には生きてはいないということ、彼は美津江が創りだしたもう一人の自分の(すなわち、幸せになりたい自分の)幻影であるということに起因するものだ。竹造は、原爆を直に受けて、家の下敷きになり死んでしまっていたのだ。劇はそれゆえ、彼女の独白を、言わば二人劇に再構成する形で作られているのである。原爆の時、美津江は家の下敷きになった父を助けだそうとしたのだが、火が燃え広がり、そのままでは美津江も死んでしまう。そのとき、竹造は美津江に自分を放っていくように言ったのだった。

竹造 わしの一等おしまいのことばがおまいに聞こえとったんじゃろうか。「わしの分まで生きてちょんだいよォー」
美津江 (強く頷く)……。
竹造 そいじゃけえ、おまいはわしによって生かされとる。
美津江 生かされとる?
竹造 ほいじゃが。あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ。

この「生かされとる」という強い受動性によって、美津江はむしろ自分から幸せになろうということを能動的に意識できるようになる。われわれは死者に生かされている。このことに僕は、ついフレッシュネスで泣きそうになってしまった。
しかし、劇に感動していると同時に、自分を何処か俯瞰的に見ていもして、本当にこれに感動していいのだろうか、と迷ったことも正直に言いたい。竹造は死者である。それは美津江の、幻想としてある。美津江は生者である。となれば、生者が死者の言葉を想像して、それを自己肯定していることにならないだろうか。死者は、決して(生者の)誰によっても代表-表象されることができないものだ。死者は語る言葉を持たない。その言葉を、語ってしまって、いいのだろうか? 僕は、井上ひさしには、その言葉を語る権利があるのではないか、とあえて言いたい。死者を語るためには、死者に寄り添わねばならない。彼はそれをしてきた人だと、僕はそう思うから。