'11読書日記14冊目 『開かれ』ジョルジョ・アガンベン

開かれ―人間と動物

開かれ―人間と動物

208p
総計4000p
ホモ・サケル』でもそうだったが、アガンベンの本はぞくぞくさせる。僕らが普段思い見ることもしない例外状態の閾を、その深淵を、アガンベンは目の前に広げてみせる。本書は中世の聖書解釈から始まり、バタイユやコジェーブ、生物学、ユクスキュル(エコロジー創始者)、ハイデガーベンヤミンを縦横無尽に横断し、人間と動物の間によこたわる例外状態の系譜学を開陳する。人間と動物の違いはどこにあるのかという、この西洋哲学史上もっとも重要な問いに、いかにみんなが答えることに失敗してきたことか。現代の生政治に直接的な理論的アプローチをくわえることを慎んでいる本書ではあるが、充分スリリングである。特に、聖書-キリスト教史における人間と自然(動物)の解釈の不可思議さというか怪しさは、ぞくぞくさせる。啓蒙期において問題化される「人間」は、生物学においても、哲学においても奇妙で怪しげな産物にならざるを得ない。言語や理性を基準に考えてみても、どうみたってチンパンジーにはそれらが欠けるが、人間だとみなされそうな人々にもそれが欠けている場合がある。アガンベンは、言語や理性などをもちいて「人間」を定義しなおす哲学的-科学的操作を「人類学機械」と呼ぶ。

人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間の産出が、今日の文化において賭けられているかぎり、人類学機械は、必然的に排除(つねにすでに逮捕でもある)と包摂(つねにすでに排除でもある)によって機能している。事実、まさに人間がそのつどそのつどつねにあらかじめ前提とされているからこそ、人類学機械は、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未確定の領域を現実に生み出すのである。〔…〕人類学機械は――これまで見てきたように――すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アルラス、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。(p59)