'11読書日記25冊目 『カント全集11 人倫の形而上学』イマニュエル・カント

カント全集〈11〉人倫の形而上学

カント全集〈11〉人倫の形而上学

452p
総計7645p
はっきり言って、それほど面白い読み物ではない。いくつか面白い論点はあるものの、概してスリリングではない。興味深く読んだところは、所有や抵抗権について。抵抗権についてももうちょっと考えてみたいが、とりあえず、所有についてのカントの議論は面白い。カントは、自分の身体の外部にあるものを正当に所有するということはどのようにして可能か、と問うている。ジョン・ロックは労働を加えた産物は自分の所有物として正当化できるとし、土地についてもそこに労働を加えればその権利を認められると考えた。だが、カントはそもそも土地があらかじめ自分の所有物になっていないのに、そこにいくら労働を加えても骨折り損にしかならないではないか、と言うのだ。ロック流の労働所有権テーゼは、労働の産物の所有権は正当化できたとしても、土地自体を所有することについては無力である。
カントは、自らの身体外部にあるものを正当に取得-所有するためには、まず、それがあらかじめ誰のものでもないということが分かっていなければならないとする(これはロックにも見られていたものではあるが)。そこで、誰にも帰属していない対象を自分の身体で一時的にではあるが占有する必要が生まれる。だがそれだけでは、対象を所有するためにはずっとその側で見張っていなければならず、物理的な限界が出てくることになるだろう。そのため、今度は、その対象が自分の占有物であり他者の干渉を禁じる旨を表示しなければならなくなる(例えば「この土地はAの所有地である、入るべからず」など)。しかし、自分だけがこのように表示していたとしても、他者がそれを踏みにじるかもしれない。そこで、そのような他人からの干渉を危惧する人らが共同して加入するような市民状態(法体制)が要請されることになる。市民状態において、普遍的で外的・公的な強制力をもつ法が機能することになり、各人の所有は守られるだろう。さらに重要なことだが、

一方的な意志が外的な取得を正当化することができるのは、その意志が、アプリオリに統合されて(つまり互いに実践的に関係しあうことになりうるすべての人の選択意志の統合による)絶対の命令を下す一つの意志に含まれている限りでのことでしかない。

とはいえ、しかし、ここで最初の問い――正当な所有とはいかにして可能か――に戻ることが肝要である。カントは、はっきり言えば、正当な所有の最初の一歩(根源的取得)は、先占、すなわち早い者勝ちだといっているにすぎない――たとえそれが市民状態において行われようとも。しかし、カントは議論の中で幾分弱気である。例えば

また先占は根源的なのだから、一方的な選択意志からの帰結でしかない。というのも、そのために双方的な選択意志が必要だとすれば、先占は二人(あるいは多数)の人格による契約から、したがって他の人の自分のものから導き出されることになるからである。――このような一方的な選択意志の作用が、どの人にとっても自分のものの根拠となることができるのはどうしてなのかは、簡単には洞察できない。(強調、引用者)

おそらくここでカントは所有の深淵に触れていることになる。そもそもどうして早い者勝ち-先占という理由だけで、その所有が正当だと言うことができるのだろうか。誰かの先占した対象に対して、遅れてやってきた人が「それを私にも分けてくれ」と言う権利はないのか、あるいは本当は共有するべきではないのか。カントはおそらくそのようなことを考えているのである。それゆえ、「法論の形而上学的定礎」の物権について扱った第十三節の見出しにはこう書かれることになる。「あらゆる土地は根源的に取得されることができ、またその取得を可能にする根拠は土地一般の根源的共有である」。

すべての人間は根源的に(つまり選択意志の一切の法的行為に先立って)土地を適法に占有している。つまり人間は、自然ないし偶然が(人間の意志によらずに)置いたところにいる権利をもっている。

ここでは、意志による取得-占有と、意志によらない受動的ともいえる取得-占有が区別されている。後者は、自然によって人間に付与される占有である。この占有は

球体の表面である地表のすべての場所は一体をなしているがゆえに、共同の占有である。

というのも、「もしも地表が無限の平面であったならば、人間はそこに散らばること」ができたであろうが、地表は球体なのでありそれは不可能である。したがってすべての地表は根源的に共有されているものなのだ。歴史的起源を指し示す原始的共有と区別される「根源的総体占有」と呼ばれるこの占有は、経験的・歴史的な概念ではなく理性概念であり、客観的現実性を持つ理念である。このことはカントにとって極めて重要である。先の問いに戻ってみれば、どうして先占が正当な所有の根拠となりえることができるのかということについて、カントやわれわれは上手く答えることはできなかった。ロックの失敗を振り返ってみれば、カントが考えていることが見えてくるだろう。ロックは主体的な労働を加えることによってその産物や、さらにはその客体である土地までについても正当な所有を主張することができると考えた。だが、いくら労働を加えたところで、土地自体の権利がもともと主張されていないことには意味が無いだろう。ここにおいてはっきりしてくるのは、人間は労働と労働による産物という主体的な意志の結果については容易に所有できるとしても、主体の意志に無関係な対象(土地)についてはその所有をうまく正当化できないということである*1
カントは、それゆえ、一方では市民状態でしか所有は正当化できないと言いながらも、ある意味で、土地の正当な所有を否認せざるをえない。地球上のすべての土地は根源的に――すなわちあらゆる人の選択意志に先行して――共有されており、そこでは私的所有は存在しない。しかし、このような自然状態――というよりも最も純化され理念化された自然状態――はすぐに消え去り、個人の選択意志による占有への欲求が生じることになり、根源的共同所有の状態は破れてしまうであろう。私的所有が正当化され得ない状態とは、端的にその所有が不当であり、不当であるがゆえに不平等が生じているという事態を意味する。先占だけでは決して所有を正当化することはできない。それはもっぱら「恣意の問題」であり、カントはアメリカ植民を引き合いに出してそれを非難している。
では、もはや正当な私的所有は不可能なのだろうか。そうではない。カントは、根源的共有を「客観的(法的実践的)現実性を持つ一つの理念」だと言う。根源的共有という理念が現実化される場所は、当然市民状態なのである。市民状態では、各人の選択意志がひとつの意志(ルソーのいう一般意志)に統合されており、外的な自由が法則として成り立っているのだ。しかし、この市民状態の議論が、ロックやホッブズのような現実の正当化として用いられているのではなく、正しくルソー的な意味においてひとつの理念として参照されているということに気をつけねばならない。市民状態、すなわち諸個人の契約によって私的所有が正当化され得るにしても、「この契約が人類全体にまで拡げられないならば、取得は暫定的でしかないままにとどまるだろう」。ここにおいて、理念としての世界市民状態がもうすでに顔をのぞかせているのだ。

*1:選択意志-実践理性に無関係に与えられる対象としての超越論的主体(カント的コギト)も、当然所有の対象にはなり得ないものである。「人間は自分自身の主人(自分について権利を持つ者)ではあるが、自分自身の所有者(自分自身を任意に処分できる)ではありえないし、まして他の人間の所有者ではありえない。なぜならば、人間は自分自身の人格における人間性に対して責任を負っているからである。このことは、人間性の権利に属することであって、人間の権利に属することではない」。