シリアスマン


吉祥寺バウスシアターに、コーエン兄弟の「シリアスマン」を観に行ってきた。GWはいつものように僕の見たい映画がちっともなくて(というと言い過ぎで『八日目の蝉』を観に行こうとも思ったのだが)、コーエン兄弟にした。結論から言うと、ものすごく良かった。いや、正確には、良かったのか悪かったのか分からないけれど、一流の「映画」であったというべきか。実際、彼らの映画は非常に笑えるのであるが、その笑いの後には不吉な悪寒がのぞく。僕は「オー・ブラザー!」」と「ノー・カントリー」くらいしか見たことがなかったのだが、どちらも笑えるにせよ、ぞくぞくと気味の悪い感覚がまとわりついて離れない。「シリアスマン」にもそのように感じた。
映画は、1967年のアメリカ中西部のユダヤ人コミュニティが中心である。中心と言ったのは、冒頭に完全なイディッシュ語で(全く本編と関係がないような)挿話が流さるからである。ユダヤ教の戒律や、ユダヤ人独特の紐帯の厚いコミュニティをブラックにあざ笑うと言って済めばそれでもよいのだが、そうではなくて、もっと本格的にヨブ記あたりを下敷きにして作られたものなのかとも思った。周知のとおり、ヨブ記とは、経験なユダヤ人の男ヨブの身にいわれのない災難――飼っていた家畜が全滅したり皮膚病になったりする――が立て続けに起こる旧約聖書の物語である。だが、全く信仰心の厚いseriousな人物であるヨブに、どうしてそのような災厄が巻き起こるのか。それは、実は、天上で神様と悪魔が一種の賭けをしていたのである。その賭けというのは、ヨブは敬虔であるが、どうしようもなく悲惨な災難が彼を襲えば、ヨブといえども神を呪うのではないか、という賭けである。神義論の原型だと言ってもいい。神が全知全能で最高善であるならば、どうしてこの世界は悪に満ち満ちているのか。
僕は「シリアスマン」をヨブ記を通してみていたのだが、実際「シリアスマン」の主人公はそのような悲惨な出来事に襲われ続けるのだ。悲惨さはコメディや笑いの要素ではあるし、それにいちいち笑わずにはいられないのだが、笑ったあとに後味の悪い不気味さが――特にエンディングにおける二つの悲惨さの予兆――残るのだ。しかし、それを映画の力と、コーエン兄弟の力と呼ばずになんと呼ぼう。