ordinary life, everyday people

いつから僕は自分の平凡さを否定するようになったのだろう。平凡であることを拒否するようになったのだろう。オブセッション。平凡であることを強迫的に回避しようとする自分にも、今では気づいている。気づかないふりをして生きてきたのに、今の自分の有様を思えば、否が応でも気付かされてしまう。自分が特別な存在ではないと理解するのは、僕にとっては苦痛なことだ。自分の普通さ、人並みさを肯定することは、難しい。そうであるなら、僕は何かに向けて努力するべきなのだろう。しかし僕はそれをも退けている。自分が特別で特異であるとただ叫ぶだけのなにものか。
どうして自分だけがこんな苦痛を強いられているのだろうかとか、どうして自分にだけ雨が降ってくるのか(Why does it always rain on me?)とか。僕がいつでも思ってきたことは、だが、利己的な救済論の裏返しだ。自分だけが苦しんでいるからこそ自分だけが救われるに値すると、心の底で思っているのだ。特異で非凡な自分、そしてその裏返しであるところの、惨めで空しい自分。
everyday people、どこにでもいる人たち。そのなかで僕は初めて救われると言うというのに。

私は冷ややかな頭で新しいことを口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなかく、もっと強いものにもっと強く働きかけることができるからです。(「こころ」夏目漱石