恥辱

太宰治は、どうして何度も自殺未遂を繰り返したのか。時に人は彼を嘲って、死ぬ勇気さえなかったのだと言う。しかし、死ぬ勇気とはなにか。自殺する勇気とはなにか。そのような勇気が尊いというのか。国のために死んでいった英霊、特攻隊の若者ら。総じて、大義のために死んだ人ら。この人らと、全く個人的な苦悩から自殺する人々は、どちらが「勇気ある死」なのか。断言するが、大義のために死ぬことのほうが、自らの苦痛のために死ぬことよりも容易いのだ。とまれ、意地悪な連中は、「自殺する勇気」のない我々に対して「お前は死にたい死にたいと言うが、それをもって自分を哀れんでもらいたいのだろう」と言うかもしれない。確かに、そのようなこともあるだろう。私自身そのように他者の哀れみを期待して「死にたい」と口にするときがある*1。しかし、死ねないこと、死にたくても死ねないこと、「死ぬ勇気」がないこと、これらは悪し様に嘲笑されねばならないほど悪いことなのだろうか、それほど価値がないことか。死ぬことより、死ねないことのほうが価値が低いのか。楽に死ねる方法があるのならばもっと自殺する人は増えるのだろうか。痛みなく死ぬことができるなら、人はすすんで自死を選ぶのだろうか。そうではない。人間の存在の核には、死ぬことの不可能性がある。自死の不可能性こそが、存在の核をなしているのだ。
 自死の不可能性、それは恥辱の可能性の裏面である。太宰治が、どうして何度も(しかも女と)入水自殺未遂を測っても死ねなかったのか。それは彼が「恥の多い人生を送ってき」たからである。恥とは、自殺不可能であるということと同義なのだ。どういうことか。恥の感覚が起きる機制を考えてみればよい。日常において恥辱の感覚が著しく現れるのはどのような局面だろうか。それは、例えば、あなたが大便器で勢いよく排便しているときにいきなりドアを開けられた瞬間ではないか。ズボンのチャックが空いているのを指摘されたとき、体臭がひどいと言われたとき、いくらでも恥の局面は列挙できる。私たちは、常日頃から〈恥〉に対峙している。恥辱が湧き上がるための第一の要件は何か。それは、他者からのまなざしである。他者の存在のないところに恥の感性はない。あるいは少なくとも、他者のまなざしを内面化していなければいけない。他者のまなざし、それは特定の他者ではなく、不定の他者――社会的規範――である。他者の視線/規範が要求するのはある特定の身体の型である。規範とは、身体の振る舞いの形式である。他者の視線を内面化した身体は、その身体形式から逸脱したときにこそ恥を覚えるのだ。アフリカの部族が裸でいて恥ずかしくないのは、彼らが野蛮/未開だからではない。彼らの社会の規範は、着衣の形式を要求しないからである。だが、ここから同時に、恥辱を生む機制の第二の要件が明らかになる。それは、他者のまなざしが要求する身体形式に、身体自体が完全には従うことが出来ないということである。身体を統御するのは、他者のまなざしを内面化した自己意識/意志である。だが、意志の統御に身体は完全に従うことはできない。いかに身体を自在にコントロールするための訓練(規律discipline)を積んだとしても、身体は意志の統御から逃れていくのだ。ここで勘違いしてはならないことは、サルトルが述べたように、恥辱の機制を身体の物質性に求めることである。排便あるいは糞、体臭は物質であるが、それが人間という生命体(ヒューマニズム)から現れてくるというところに、サルトルは恥辱の源泉を見る。だが、それならばどうして動物は恥辱を感じないか、アフリカの部族の人らは裸に恥辱を覚えないか。そうではなくサルトルが前提としているヒューマニズムがあるからこそ、つまり人間は人間らしく有るべきだという規範があるからこそ、ヒューマニズムにもとる身体所作は恥辱を引き起こすのである。
 ところでリベラリズムの最も根源的な原則は、危害原理である。つまり、「他者の身体に危害を加えない限りにおいて、あなたは自由に振舞ってよい」という規則こそが、リベラリズムの根幹にあるのだ。危害原理をさらにその根源へと遡ってみれば、そこには身体の自己所有権がある。自らの身体は自らが所有しているとみなされるからこそ、危害原理が妥当してくるのだ。では身体の自己所有権を正当化する根拠はなにか。それは、自らの身体は自らの意志によって統御可能であるという想定なのである。それゆえ、例えば、成人に至っていない子供には身体所有権とともにある種の権利が制限されることになる。だが、本当に身体は自己所有可能か、あるいはつまり、身体は自己統御できるものか。そうではない。身体は、自己統御不可能なものだ。
 逆に言えば、身体の自己統御不可能性にこそ、生の核、存在の核がある。生はまったく自己統御不可能な身体の内奥の核において続けられるものなのだ。レイプが、真におぞましいのは、意志による統制不可能な身体をこそ暴力的に犯すからである。それが暴力でなくてなんだろうか。レイプ魔の陳腐な物言い「お前は口(意志)ではこれほど嫌がっておきながら、身体はこれほど素直ではないか」は、レイプの汚らしさやむごたらしさを表現している。意志による管理ができない身体にこそ、存在の核があるのだが、レイプ魔は自らでさえ犯しえないその核に暴力を振るうのである。同様に、自殺が倫理的悪であることも理解されえる。自殺において死ぬのは意志だけではなく、意志の埒外にある身体なのだ。自殺する勇気とは、意志の力それ自体ではなく、意志の力によって意志による従属から逃れようとする身体を肉体的暴力によって無理やり従わせる勇気なのである。ここまできて、ようやく太宰が「恥の多い人生を送ってきました」と言いながら、自殺未遂をなんども繰り返し自殺できなかったことも理解される。恥の多い人生とは、すなわち、自己統御から逸脱し続けた身体に他ならないのである。それは、カフカが言う「恥辱だけが生き延びるようであった」と同義である。恥辱は、意志が意志の統御から逸脱していく身体の現象に立ちあったときに感じる心理的機制なのだ。〈恥辱〉ないしは、意志による統御から絶えず逃れ続けていく身体、これこそが存在の核である。
 例えば、人の性格について考えてみれば良い。ある人を評価するときの基準において、性格を上げる人は多いだろう。しかし、どうしてその人の評価が性格と結びつくのか。性格は、端的に、当人が選択して得られるようなものではない。仮に善良で誠実な人間になろうとしたところで、他人からはあつかましい性格をしていると思われることもある。善悪という評価は、こうして見るならば、当人が能動的に選択した結果において基準となるのであれば理解されえる。だが、どうして当人の選択とは無関係に立ち現れる性格なるものを、その人の評価基準にしてしまうのだろうか。それは、当人が選択したからではなく、選択できなかったものであるから、一層強い価値基準を形成してしまうのである。つまり、性格――当人が選択できなかった存在の核、恥辱こそが、本質的なのだ。
 だが、恥辱は〈不自由〉で厭わしいものなのだろうか。決してそうではない。意志が顕現するのは、恥辱にまみれた身体において、もっと正確に言えば、恥辱だけを生き延びさせるような身体においてなのである。生は、根源的恥辱において、存続するのだ。それゆえ、決して恥辱は〈不自由〉なのではない。むしろ、自由の根底に恥辱がある。ところで、私たちが真に自由であるとはどのような事態だろうか。様々な選択肢の中から自分の好きなものを選ぶことができるとき、それは自由だろうか。そうではあるまい。いくら数ある選択肢が与えられ、そこから自らの意志において選択できたとしても、あとになって見れば「あの時別のやり方を選択しておけばよかった」という後悔をぬぐい去ることは出来ないだろう。自由は、そうではなく、むしろ全く不自由でありながら、その選択しかありえなかったという時にこそ感じられるものなのだ。その自由、根源的自由が顕現するのは、恋愛においてである。
愛する対象は、例えばネクタイを選ぶようにより好みして決定されるのではない。全く訳のわからない理由、理由にもならないような理由、理由さえ思いつかないような契機、これらにおいていつの間にか愛していたと感じられるときにこそ、私たちは本当の愛を感じるはずだ。しかし、それは不自由だろうか。決してそうではない。愛の経験において、選択はありえなかった。にもかかわらず、その選択しかありえなかった、この人しかなかった、そのように感じられるとき、私たちは真の自由にたちあっているのだ。
愛する人は、それゆえ、私の〈恥辱〉である。いや、より正確に言えば、愛する〈他者〉の存在は、潜在的に〈恥辱〉であり、普段は〈他者〉を恥辱と感じることはない。どういうことか。愛がまったき〈他者〉において、自らの志向性を集中させることであるとすれば、どうしてその〈他者〉を志向せねばならなかったのか、という問いには応えられない。自らの志向をコントロールできないのに、その志向性において自由であるということ、これこそが愛なのだ。それゆえ、愛は、愛の体験における〈他者〉こそは、私が私の身体を統御不可能であるというのとまったく同様の相貌において捉えられねばならない。〈他者〉は、日常性において私たちの中に隠れている。私たちのコミュニケーションが円滑である場合には特にそうだ。だが、私たちはしばしば恋愛のさなかで「どうしてこんな奴を愛してしまったのだろう」と苦悩する。この苦悩――自らの志向性のコントロール不可能性の苦悩――に直面したとき、この瞬間にこそ、愛が向けられた〈他者〉の存在が〈恥辱〉に変わるのだ。だが、本来的に〈他者〉は、〈私〉とは異なるという定義上、〈私〉の統御から逃れていく別様なる存在である。それゆえ、私が意志によって選択できず統御できない身体こそが〈恥辱〉であるのだから、愛において、私を愛させたその人こそ、私の意志から逸脱してゆく〈恥辱〉なのだ。だが、しかし、本当は、この類比を逆転させて考えられねばならない。私たちは、こう言うべきであったのだ。〈私〉の身体こそ、あるいはより哲学的に厳密に言えば、〈私〉の存在の核にあるものこそ、恋愛における他者体験と同様に、〈他者〉―〈恥辱〉であるのだ、と。
再び問おう。〈恥辱〉は、私のこの身体の統御不可能性は、不自由であり厭わしいものか。そうではない。愛における〈他者〉が、すなわち〈恥辱〉である限りの愛の体験が、不自由ではなくむしろ自由であるのと全く同様に、私の〈恥辱〉は私の〈自由〉の基底をなしているのだ。
自らの思い通りにならないことが多くて、絶望し社会をルサンチマンと共に眺める人らは、この自らの存在の核をなす〈恥辱〉から目を背けているのだ。〈恥辱〉がなければよい、全て自らの思い通りになればいいと、そう思っているのだ。だが、自らの存在の核は、意志の能動的コントロールに存在するのではない。意志の統御から逃れ去る地点――それを〈恥辱〉と呼んでも〈愛〉と呼んでも、あるいはもっと実直に自己から隔たった存在として〈他者〉と呼んでもいいが――においてこそ、人は存在しえるのであり、〈自由〉であるのだから。この〈恥辱〉にとどまり続けること、〈愛〉に踏みとどまること、これこそが、汝の自由を切り開く要である。

*1:私はそれを自覚し、そのように振る舞う自らが好きではないので「死にたい奴には死ねと言いたい」という言葉が心地よい