'11読書日記42冊目 『ナチュラル・ウーマン』松浦理英子

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

ナチュラル・ウーマン (河出文庫)

227p
総計13477p
松浦理英子の小説が好きだと言う人を愛したことがある。そのおかげで極めて奇妙で面白い小説『親指Pの修行時代』を、数年前に読んだ。なにしろ親指がペニスになってしまう女の子が主人公だというだけで、相当に面白いだろう。だが、主題が与えてくれる興奮感とは別に、読みおえた時に感じたのは、作者は愛について勘違いしているんじゃなかろうかということだった。僕は『ナチュラル・ウーマン』のほうが『親指P』よりも好きだ。どことなく『親指P』はクィア理論を小説化しようとしているところがあった。本作は初期の作品だけれど、繰り返し描かれる性描写(性的快楽の描写?)の裏側に、痛切な愛の問題が潜んでいると思った。どうしてこの本を読もうと思ったのか忘れてしまったけれど、読みながら何度か愛についての痛ましい記憶がよみがえってきたりもした。
『親指P』には様々な奇形が登場し、ヘテロセクシズムはことごとく破壊されていく。だが、等比級数的に増えていくセクシュアリテの数とは反対に、愛の形は惨めなまでに切り詰められていく。愛は、そこでは、快楽や快感と見分けがつかなくなっていく。小説家がテクニカルに快楽を「感動」と言いかえたところで同じだ。いったい、いつから僕らは愛を快楽と同値し、快楽を感じない人を愛することはできなくなってしまったのか。愛する人には、必ずや、快楽を感じなければならないのか。愛には性欲が必要なのか。あるいはもっとストレートに、愛は性欲なのか。愛は、松浦理英子によって、色とりどりに倒錯した性愛を通してしか語られない。性器結合中心主義批判という十文字の漢字の羅列は、そのものものしさとは裏腹に、かえっていっそう作者が性にとらわれていること、愛が性に回収されていることを暴いていはしないか。性器結合中心主義批判は、皮肉なことに、性愛中心主義に先祖返りする。
フーコーは、近代の権力は、セクシュアリテという格子を通してしか「我々が何者であるか」という主体の問いに答えられない空間を練り上げたのだと、分析した。逆に言えば、セクシュアリテは主体の問いと結びつき、結びつくことで多様化させられる。セクシュアリテは産出されるのだ。確かに、松浦理英子ヘテロセクシズムの強権を破壊する。だが、その方法は、執拗なまでのセクシュアリテの多様化・奇形化なのだ。フーコーの権力論を、ヘテロセクシズムが異性愛だけを特権化し他の多様な性を抑圧しているという風には、間違っても矮小化されてはならない。セクシュアリテは抑圧されるどころか、多産される。異性愛を中心にして各人のセクシュアリテの位置が中心の近傍から順に配置され、それが異常性愛として認定=産出されていくのだ。もちろんそこには抑圧の問題系もあるだろう。だが、フーコーの問題圏は、そうではなく、セクシュアリテを通してしか主体への問いに答えられないということ、主体がセクシュアリテによって構成されるしかないということ、そしてセクシュアリテが生殖と交差するとき、そのときには生そのものが管理の対象となるということ、これらの権力の戦略なのだった。

性を肯定すれば権力を拒否することになる、などとは考えないことだ。そうではなくて反対に、性的欲望という全般的な装置の脈絡を追うのである。もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦術的逆転によって、身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点は、〈欲望である性〉ではなくて、身体と快楽である。(『知への意志』)

松浦は、確かにこのフーコーの最後の言葉「性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点は・・・身体と快楽である」に忠実であるようにみえる。だが、彼女の書く快楽は常に「性的快楽」であったし「愛」と結びついてきた。愛は、後で見るように、主体の問いと深く関わっているものだ。とすれば、愛を性的快楽の中においてのみ描くことでは、「性という決定機関からこそ自由」にはなれないのだ。n個の性を描くことと、愛を描くことは同じではない。性愛=快楽は、愛から切り離すことが出来ないものかもしれない。といっても、愛がなければ性愛=快楽はないということでもない(セックスなど誰とでもできる)。だが、愛があるところには必ず性愛=快楽があるのか。人は、性愛=快楽を感じなければ愛することが出来ないのか。愛するためには、性愛=快楽がなければならないか。松浦は、この種のラディカルな問いからは目を背けているように見える。
だが、作者の意図はどうあれ、本書『ナチュラル・ウーマン』においては、セクシュアリテが愛によって粉砕される。本書の主人公・夕記子は性愛=快楽にがんじがらめになっているが、性愛=快楽を通じて確認された愛は最後には性愛=快楽を通じて再び否認されるのだ。夕記子は何度も自らが欲望の塊であるということに苦しめられる。愛していないと分かっている女との情交のとき、快楽を感じながらもかつて本当に愛した人に与えられた快楽を越えることがないと感じてしまう。だが、当の本当に愛した花世という女には、「自分の気持に夢中になっているだけでしょう、私じゃなくて。あなたに私を好きだという資格はないわよ」などと言われてしまうのだ。ここには、大きな転換がある。
ナチュラル・ウーマン」の印象に残る台詞「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの」は、それを語る花世が黒人解放運動を素材にした漫画ばかり書いているということを差し引いても、率直に読めばあまりにナイーヴすぎる箇所だ。抑圧から解放されたところにあるかに見える自然的な女性性などは、抑圧があるからこそ仮構されるものにすぎない。花世は、確かに情交の時に夕記子が真剣に感じる快楽によって自らのthe naturalが、自然的な女性性が、回復されたように感じる。しかし、そのthe naturalは、「ナチュラル・ウーマン」は、自らが求めているものではなかったのである。花世は、夕記子に尋ねる。

「人を好きになるのが怖いと思ったことある?」
花世がまた問をよこした。
「わからない。」
感じたままを私は答えた。

花世は、そうだ、確かに「人を好きになるのが怖い」と感じたのだ。しかし、それはなぜか。夕記子に抱きついたとき、花世の自然的な女性性は回復されたのではなかったか。この問いに、愛は持続するものではありえない、愛は冷めるものだなどと陳腐な回答を挟んではならない。人を好きになる恐ろしさとは、愛において主体の根源的な不安があからさまになってしまうところにある。誰かを愛したとき、人は自らの実存が満たされるような気がするだろう。しかし、それがいったい愛の何によって満たされているのかは分からない。愛の理由を説明することは出来ないからだ。自らの愛の理由が説明されないとき、愛の理由が根本的に隠されているとき、そのときに「どうして私はこの人を好きになってしまっているのだろう」という不安に直面する。その不安は、自らへ差し向けられている。愛している自分は何者なのかという主体の問にさいなまれるのである。
それゆえ、最初に夕記子を抱いたときに感じた「ナチュラル・ウーマン」は、愛の不安/主体の問いに対する回答を誤答しているに過ぎない。他でもないこの人を愛しているときに「ナチュラル・ウーマン」になれるというのは、愛の理由をセクシュアリテ=快楽に求めていることである。花世は、本当は、「あなたを抱きしめたとき、私は私になれたのだ」と言明せねばならなかったのだ――それがたとえ逆説的に「私」とは何ものかの問いを再び誘発するにしても。一方、花世にとって夕記子は、自分との情交において快感を感じている「がゆえに」自らを愛しているように映らざるをえない。花世から見れば夕記子の愛は性愛=快楽と同値される。どれだけ打たれて騙されても、それでもまだ身体をいたぶられることをやめようとしない夕記子は、花世にとってみれば、性愛=快楽だけを理由に花世を愛しているに等しい。
ここにおいて、花世と夕記子の断絶は明らかである。花世が愛の根源的な不安に怯えるとき、夕記子はそれを感じてはいない。その断絶がまた花世を苛立たせ、不安にさせる。性愛=快楽は、愛から決定的に遠ざけられる。花世が「ナチュラル・ウーマン」になれたのだと言明するとき、そこにはセクシュアリテを通じて主体が語られている。だが、花世はセクシュアリテによって自らの主体を明らかにする道を封鎖されてしまうのだ、まさに愛によって。花世は、愛によって主体に接近し、同時に、愛に接近できないがゆえに主体から遠ざけられる。他方、夕記子はセクシュアリテを愛と等値し、同時に主体と重ねあわせるのだ。しかし、小説はセクシュアリテ=愛という等式を、夕記子の愛の敗北を通して、無残に打ち砕いて見せる。夕記子は決定的に打ち捨てられる――セクシュアリテを通じて自らを語ることを拒否した主体によって。花世は最後に問うだろう。

「あなたはどうなのかしら? いつかナチュラル・ウーマンになるのかしら? それとも、そのままでナチュラル・ウーマンなの?」
耳に入った瞬間に心臓の膜を破り血に混じって体中に回りそうな質問だった。
「考えたことないわ。」
辛うじて言葉を返したが、涙が滲んだ。自分が何なのか、いわゆる「女」なのかどうか、私にはわからない。そんなことには全く無関心で今日まで来た。これからだって考えてみようとは思わない。けれども、だからこそ、たった今花世から発せられた問が痛烈に響いた。一人きりで絶壁の縁にいるのを教えられたようなものであった。

花世の問は、反語的に読まれねばならない。「いつかナチュラル・ウーマンになれるとでも思っているのか、そうではない。そのままでナチュラル・ウーマンであるとでも思っているのか、そうではない。ナチュラル・ウーマンなどどこにも存在しない」。もはや「ナチュラル・ウーマン」などというセクシュアリテに頼って「自分が何なのか」を探る道は決定的に破壊されている。性愛=快楽によって愛に至ること、主体への問の回答を出すことは、封鎖されてしまったのだ。セクシュアリテという社会的構築物に寄りかかって主体への問いに答えることはできない。「一人きりで絶壁の縁に」いて、孤独に主体へと問を差し向けなければならない。セクシュアリテを理由にすることなく、「一人きりで絶壁の縁に」いるような不安を味わいながら、人を愛さねばならない。*1
だが、時系列的には一番未来に位置する2作目の「微熱休暇」において、読者は「性的な抱き方ではなく庇うような抱き方」を、セクシュアリテから離れて現れる愛として見出すだろう。それは一つの救いの可能性である。薄明かりで希望とも思えないようかもしれないものだが、それは確かに小説によって示される、愛がセクシュアリテから自由になる可能性なのだ。本書は、かように反語的に――筆者の意図に反してでも――読まれねばならない。

*1:実際、花世はもう一生誰とも寝たくないと語り「私はセックスが苦手なの。よくわからないのよ。」と愛をセクシュアリテと同一視することを徹底的に拒否して見せる。また、それは同時に、セクシュアリテの中に愛を見出していた夕記子を単純に否定することでもある。