'11読書日記46冊目 『リアルの倫理――カントとラカン』アレンカ・ジュパンチッチ

リアルの倫理―カントとラカン

リアルの倫理―カントとラカン

328p
総計14570p
ラカンについては全く分かっていないのだけれど、この本みたいなカント読解ができるのならそれは楽しいと思う。カントは、ある行為をしようとする時、意志が何によって決定されているかによって道徳の基準を設定した。意志が例えば、利益や自己愛、名誉といったものによって決定されているならば、それは真に道徳性のあるものではない。

倫理一般に関する最大の逆説は、倫理を打ち立てるためには、我々はすでに倫理を、善について何らかの概念を持っていなければならないということだ。

カントはこの逆説を避け、道徳律はそれ自体で成立し、善は道徳律があって初めて指定されるものになるという方向で考えたのだ。それゆえ、道徳的であるためには、意志が感性的・経験的な動因によらず、ただ理性の命じる道徳法則(定言命法)によってのみ規定されていなければならない。そして定言命法に従うこと、つまり、自らの行動原理として定言命法を組み入れること、これが自由なのだと考えたのである。もちろん、この背景には、経験的-現象的な世界はすべて因果法則に支配され自由など存在しないという、カントの認識論的立場がある。だとすれば、しかし、意志が理性の命じる道徳法則に従う時点では〈自由〉だと言えたとしても、行為に移され現実化された時点では因果法則の連関に絡み取られてしまう。実際、自由に行為したと思うようなときでも、心理的な要因や隠された動機、無意識の結果であるかもしれない。とすれば、〈自由〉は全く霧散してしまうように見える。もちろんカントは、〈自由〉や〈最高善〉は絶えずそこへ駆り立てられねばならない統制的な理念であると述べている。だが、それは同時に、現象界に〈倫理〉を、〈自由〉を打ち立てることの不可能を見ていることにならないだろうか。感性的な要因を果てしなく切り詰めていった先に道徳的な行為が見いだせるとは、間違っても考えてはならない(カントは時折このような見方を取り、道徳という理念を現実化するために、不死の魂や神を要請する)。それでは〈自由〉な主体というものは幻想に過ぎないのだろうか。ジュパンチッチは、このようなカント的な隘路を、カント自身を用いて抜けだして見せる。どうしても感性的な要因(心術)によって行為してしまう主体は、たしかに因果律に絡め取られて自由ではない。しかし、カントは――
ジュパンチッチによれば――心術を根源的に・ア・プリオリに選びとることのうちに自由を見出していたのだ。自らの心術は自分ではどうすることも出来ない。しかし、その心術を自らが選んだものとして受け入れる限りで〈自由〉な主体が現れるのである。それゆえ、真に〈倫理〉的な振る舞いは、こうした心術の選びとりを可能にするようなものでなければならない。
・・・と書いててちょっと自分の理解に不安を感じたのでここまで。非常にすばらしい本であるのに、版切れしてるっぽいっていうのがかなり残念。