'11読書日記50冊目 『存在論的、郵便的』東浩紀

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

338p
総計15601p
東浩紀の単行本デビュー作。デリダの哲学――特に脱構築の哲学の形成から、テクスト事態が入り組み複雑化し難解になっていく中期にかけて――を読むことの理由を問い詰めていく理論の書物である。理論の書物であると同時に、それは否定神学的な議論を徹底して遠ざけ、同時に、脱構築学派あるいは「フランス現代思想」と揶揄される難解なテクストの戯れをも回避した、図式的な書物である。第一章から第二章にかけてのテンションの高さは、第四章では完全に冷め切り、図式的に語らざるを得なくなっている自らにも半ば嫌気がさしているような、そのような欝な方向で本書は幕を閉じる。重要な議論としてあるのは「固有名の剰余」に関する問題系であり、そこにはハイデガー以来伏流する否定神学性、悪しき神秘性が絡みあう。そのような神秘的な否定神学へ向かう脱構築を、本書ではゲーデル脱構築と呼び、中期の難解なテクストにおいてデリダがやろうとしたことをデリダ脱構築と呼ぶ。後者が「郵便」や「幽霊」といった、存在の確率論を示すのに対して、前者の否定神学的な脱構築は全体性を扱うことで神秘性を帯びざるをえなくなる。確かに、前者の確率論というアイデアは魅力的だが、本書においてそれが十全に発揮されたとは思えない。アガンベンの議論との接続において、それは真に賭けられるような気もするが、東はそれをもはや放棄したようにも見える。非常に嗜好を触発されるが、何かもう一つ、もう一声くれよ!という感じが拭いがたい。