'11読書日記52冊目 『滝山コミューン1974』原武史

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

滝山コミューン一九七四 (講談社文庫)

343p
総計16177p
1969年の「政治の季節」、学生運動が完全に終焉したとしても、それは「学生」に限られるだけで、70年代前半にかけては革新勢力が大きく躍進した時代だった。民主主義を掲げ、米ソのイデオロギー対立が激化し、左翼にとって未だソビエトが理想に映った時代、それは70年代前半までは確かに生き続けたのだ。本書は、こうした民主主義的な理想、コミューン主義が小学校教育の場でも実践されたこと、そして全く皮肉なことに、民主主義的な教育が独裁的な教育現場をしかもたらさなかったこと、それは学生運動の、特に連合赤軍派の内ゲバのような悲劇が繰り返されたものであったということ、このようなことを、筆者自身の過去とともに描いたドキュメントである。筆者は鉄オタとして知られる日本政治思想史研究者であり、同時に都市感覚、いや郊外の感覚といったものに敏感な一人の作家でもある。〈郊外〉という独自の文化の形成については最近つとに論じられるようになってきたが、本書はとりわけ滝山という西武鉄道グループの失敗した団地の地域の磁場を鋭く描ききっている。民主主義と場所-空間の話は極めて重要なものだ。例えば、直接民主制が可能になるための空間の範囲は限られる、といったようなことがそれだ。本書が扱う主題は、1974年、滝山、そして小学校という非常に限定的なものである。だが、空間と時代、そして民主主義という理想がいかに頽落していくのか、その理想はもはや失われて締まったものなのか、これらの問いを眼前につきつける。民主主義の理論を練り上げようとする人にとっても、また、単に組織の運営に携わるような人にとっても必読の書に間違いはない。
僕は小学校という時代を、おもしろくないものとして振り返ってしまう。小学生にとって教師は絶対であり、また仲間はずれの疎外感から逃れる場所を持つことが難しい。中高生になれば、学校の外に自分のテリトリーやアジールを見出すこともできるだろう。だが、小学生にとっては学校が全てであり、そこから逃れる術は見当たらない。誰もがそのような閉鎖感を、持ったことがあるのではないか。どうしてだろう。小学校の六年間は、きっと今の僕自身につながりを持つはずなのに、自覚的にそこにつながりを持ちたくない気がするのだ。中高が楽しすぎたからだろうか? そうではなくて、まだ自我の形成が中途半端である時代、その時代の歯がゆさを、残酷さを、そして無力さを、感じているのではないかと思う。本書は、作者の誠実な「告白」であり、またそれゆえ虚偽性をはらみつつもその虚偽性に向かい合おうとする入れ子状の悲しさが、精一杯表現されたものなのだ。