'11読書日記53冊目 『タイタンの妖女』カート・ヴォネガットジュニア

477p
総計16654p
久しぶりにこれぞ!という小説に出会えた。この本の全てのページに愛着を感じる。徹底して決定論的な歴史法則に翻弄される人々。人智を超えた運命に振り回されるというモチーフは、オイディプス以来の「悲劇」にも連なる。実際、この奇妙な家族小説――そう言っても差し支えあるまい――では、自らの妻が地球上でもっとも醜悪で卑俗な男によってレイプされ子供をつくるだろうということが、夫であり歴史の父なるラムファードによって予言されている。予言は、そして、成就する。だが、多くの悲劇とは違って、というかむしろ悲劇であることを徹底しているからこそ、『タイタンの妖女』は喜劇である。というのも、地球上の全ての人々の、そしてラムファード、マラカイ、ビアトリスの人生が、極めてしょうもないもののために、糞みたいな目的のために、棒に振らされてしまっているのだ。何億光年も離れた惑星の〈機械〉が、これまた何億光年も離れた別の惑星に向けて、たった一言(一点)「よろしく」と伝えるためだけのために。決定論と自由。そして悲劇と喜劇。最後の極めて感動的な言葉さえ――それはまさに小説の円環を美しく閉じる――、実際のところ〈機械〉の催眠効果によるものである。

過去に存在したあらゆるものは、これからもつねに存在し続けるだろうし、未来に存在するであろうあらゆるものはこれまでも常に存在したんだ。

単線的な時間を超越し、あらゆる場所・時間に偏在することを強いられているラムファードは、このような歴史観を述べる。ニーチェ永劫回帰を思わせるようなそれは、しかし、諦観と勇敢の紙一重のようなものだとも思える。全くの無力さを全くの肯定で受け入れることができるだろうか。