'11読書日記56冊目 『鍵』谷崎潤一郎

鍵 (中公文庫 (た30-6))

鍵 (中公文庫 (た30-6))

240p
総計17278p
本書は、極めて特異な日記文学である。日本の伝統的な私小説は、ある種の日記に他ならない。そして私小説-日記においては主体の告白が主体と同一化する。パロールが主体の構成を支えるのだ。しかし、この小説『鍵』は日記文学であるにもかかわらず、私小説-日記の機能、つまり主体の構成を抹消してしまう。存在するものは、一人の主体の、一人の語り手の告白-日記なのではなく、夫と妻という二人の日記である。円満な性生活を営むことのできない中年夫婦のそれぞれの日記が、交互に綴られていく。これだけの単純な仕組みであるのに、主体の同一性――あるいはこう言って良ければ主体の存在の核――への到達は、徹底的に遠ざけられてしまう。さらにより抽象的に言えば、『鍵』はすべてを見渡す神の位置にあるナラティブ=作者を不可能なものとして退けるのだ。どのようにしてか。
二人の日記は交互に記されていくのだが、驚くべきことに、二人は自らの日記が互いに読まれているということを知りながら、性生活について思うところを書き綴っていく。夫はみずからが妻の淫蕩な身体の要求に応えることができずにこれまできたこと、そしてそれに応じるためにもがき苦しむさまを書く。妻もそれを読み、自らの不満の思いを、夫をそそり立たせるかのように書き記す。お互いがお互いの日記の所在を見つけはするものの読んではいない、という体裁を取りながらさらに日記が書き続けられていく。性生活についてお互いが思うところを、日記の隠し読みという形でコミュニケートしあうのだ。
ここでは、そのあけすけな性生活の描写にではなく、日記の書記が主体へと至る道を全く閉ざしてしまうということに注目しなければならない。どういうことか。日記は本来、明らかならざる告白、隠された「本当の気持」の告白として綴られ、綴られることによって書き手の存在の同一性を練り上げていくような媒体である。同様の形をとって、「私小説」は作者と小説内の「私」を究極において近接させる。日記-私小説を通して、書き手-主体の「本当のこころ」の存在が自明視され、前提される。主体の実存の全てが確固たるものとして現れるのである。
だが、二人の書き手が日記を――他人に読まれてはならない「本当のこころ」を告白する場としての日記を――お互いに読まれていることを前提にして、書いているとしたらどうだろうか。その時には、読者は日記に現れる「私」を、日記の書き手と即座に同一視することはできないばかりか、読まれるために書かれた日記のやり取りが進行していくに従って、「私」と日記の書き手の距離が乖離していくことを感じざるをえないだろう。特に、本書のように、妻が夫以外の男性と不倫関係に陥っていき、陥っていきながらも夫との性生活が加速度的にエスカレートしていくような状況ではそうである。本書は決して、異常な性生活を歩む中年夫婦の物語として読まれてはならない。マゾヒスティックな性欲とタナトスの漸近、その踏破だけが『鍵』なのではない。一方に、夫のマゾヒスティックな嗜好と、しかしながらやがてマゾヒズムに耐え切れなくなる老年の肉体があり、他方に、尽きることのない性欲に支配された肉体を持つ非-人間としての妻というミソジニスティックな表象がある、という風に読まれてはならない。本書は、その単純な仕組によって、パロールと、パロールの主の間を架橋することが不可能にされているというラディカルさにおいて読まれねばならないのだ。
日記の書き手と、書き手の存在への距離が無限大に拡大して見える背景には、二人の日記が主に性という秘匿されるべきものについて書かれているということもある。フーコーが暴いてみせたようにセクシュアリテの告戒こそが主体を構築する制度であったとすれば、ここではその制度が夫婦の日記の並列によって脱構築されてしまう。秘匿されるべきセクシュアリテこそが二人のコミュニケーションのもっぱらの話題である。だがしかし、そこではお互いがお互いに対して姦計を尽くし、より現実的・唯物的な快楽へと至ろうとするがゆえに、セクシュアリテの告白でさえ主体の存在の核、「本当の私」とは結びつかない。
本書を読み進めていく内に、読者が感じざるをえないのは、この夫/妻の日記に書かれていることは、本当に彼らの「本当の気持」なのだろうかという疑惑だ。だが、この疑惑を明らかにすることができるような神の視点は存在しない。夫が自らのマゾヒスティックな欲望に敗北し、死に至った後も、超越的な視点を持つ作者は登場しないのだ。それゆえ、疑惑は宙吊りにされたまま、パロールと主体の距離はかけ離れていく。セクシュアリテによってパロールが主体と結び付けられる一瞬間に、別の主体の眼差しの介入によってその結びつきがねじ曲げられるのだ。セクシュアリテの告白が向けられるのは、超越的な第三者、社会的規範の審級なのではない。その告白は、発話内行為perlocutionとして互いの配偶者へと向けられている。そこでは、セクシュアリテの告白と主体の存在の核は分離せざるをえないのだ。
だが、最後の最後に、転換点が訪れる。それは、夫の死後に書き綴られた妻の日記、モノローグである。夫の死後も妻は日記を書き続ける。だが、そこには明確な理由は存在しない。彼女の日記は、もはや夫に送り届けられることなく、今度は逆に、超越的な視線へと向かう。妻は夫が脳出血で倒れたあと、どうやら実の娘に日記を発見されたらしいことに気付く。

さしあたっての私の当惑は、もしこの推定が当たっているとすれば、これから以後の日記をどうしたらよいか、ということであった。私はいったん附け始めた日記を、障害に出遇ったからといって、中絶する気にはなれなかった。そうかといって、これ以上盗み読まれることは、避けられるだけは避けたほうが良い……

彼女は、もはや誰か特定の人間に読まれるために日記を書くことはできない。そして、そもそも、日記が夫に読まれるためにのみ書かれたのだったのだとすれば、もはや読む人間が死のうとしている以上、それを続ける必要はない。しかし、彼女は「日記を中絶する気にはなれな」いのである。このようにして、夫の死後にも続けられる日記は、全く性格を変える。夫の性欲へと送り届けられるはずであった日記は、いまや自己内対話の告白として、見知らぬ第三者に送り届けられ、ここにおいてセクシュアリテを通じて妻の実存が構築されるのだ。夫の死後に書かれた日記において、書き手と妻の「本当」の乖離が無化されるのである。
しかし、ことはそのように単純には終わらない。読者は、最初に日記を書いたはずの夫の存在の核には、やはりたどりつけないことに愕然とする。夫は――当初主人公であるかに見られた人物は――死に、パロールは途絶え、いよいよ彼が「本当には」どのように思っていたのかを知りえないのだ。夫のパロールは、夫の存在の中心からは遠ざかったままだ。この小説を読み終えたとき、夫は「本当」は別のことを感じていたのではないか、日記の裏に、語られなかったことのなかに夫の真実があるのではないか、そのような勘ぐりさえしてしまうかもしれない。だが、ついに夫の「本当」を、その存在の核を明らかにするような超越的な視点は現れない。本書は超越的な視点が不可能であるということを理解し、その上で夫の「本当」をも抹消するのだ。
最後に、『鍵』という秀逸なタイトルが含意するところを見なければならない。夫は、自らの日記を妻に見てもらいたいがために、書斎に小さな鍵を落としておく。妻はそれを使って戸棚を開け、日記を読む。それゆえ鍵は、まさに日記へ至るための道具であり、それゆえ夫の存在の核に至るためのメタファーであるかに見える。しかし、皮肉なことに、鍵を使って戸棚を開けて日記を読んだとしても、読めば読むほど夫の存在の核、夫の「本当の」姿が別なところにあるように思われてしまうのだ。だが、夫の存在の核は、日記そのものでしかない。「本当の」夫の姿を明らかにすることができる超越的な視点は不在なのだから。「鍵」というメタファーはずらされている。鍵を手にしたからといって、大切なものへと辿りつくことはできない。そこには、ただ、何かへと通じていることを思わせる、鈍色の小さな、そして卑俗でしょうもない鍵しかなかったのだ、今までもこれからも。