'11読書日記58冊目 『ツナミの小形而上学』ジャン=ピエール・デュピュイ

ツナミの小形而上学

ツナミの小形而上学

150p
総計17825p
自然災害や環境危機、原発危機、これらの危機が現実化したときに、人々は政府や権威のある団体の知識・情報が不十分であったと申し立てるであろう。だが、問題はそれらの危機に対して警鐘を鳴らし続けてきた人々がいるにも関わらず危機が現実化したという事実そのものなのである。つまり、警鐘を鳴らす予言者たちの予言がどうして聞き入れられなかったのかが問題なのだ。それは、デュピュイによれば、予言が人々の「信念の体系」に入っていないことが原因である。問題は、警告者の予言がいかに現実性を帯びて立ち現れることができるかなのである。ギュンター・アンダースというユダヤ人哲学者(アレントの前夫)の寓話を引きながら、デュピュイは現代的な破局が持つ時間性を次のように取り出してみせる。

私たちが未来の扉が閉ざされる原因にならざるをえないのだとしたら、人類の歩みそのものの意味自体が永久に、また遡及的に、破綻してしまうだろう。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろう。洪水がすでに起きてしまったときには、今ある全ては全く存在しなかったことになっているだろう。

過去の意味はこれからの行動にかかっている以上、未来を廃棄すること、プログラムされたその終焉が意味するのは、過去にはもはや意味がなくなるということではなく、過去には全く意味がなかったことになってしまっているだろうということだ。

本書は、こうした現代的破局-終末に特有の時間性から、予言の現実的な効果を担保する視点を切り開こうとする。それは、フランス語で言う前過去、英語で言う未来完了の視線である。破局の予言が人々の「信念の体系」に入れられるためには、単に知識の増大だけでは不十分だ(であるどころか全然ダメだ)。破局は、いかに科学的知識が集合したとしても起きてしまうものなのだ。予言が現実性を帯びるためには、先取りされた終末論的な視線がなければならない。つまり、破局は未来のいつかに「起きてしまっているだろう」と言える視点が取り込まれねばならないのだ。
デュピュイは、また、本書で現代的破局と悪の関係についても論じている。アウシュビッツヒロシマナガサキ、ニューヨーク(9.11)。こうした現代の悲劇を見ると、我々は非常なる悪が、根源的悪が噴出したのだと感じるだろう。だが、デュピュイはこれらの出来事の前と後ろに意外なものを付け加えるのである。アウシュビッツの前にリスボンを、ニューヨークのあとにスマトラを。すなわち、アウシュビッツや広島を、「ツナミ」の隠喩で捉えようとするのだ。一見奇妙で、ことによれば人を憤慨させる論述だ。デュピュイが言いたいのは、現代的な破局がまるでかつて1755年に起きたリスボン地震のような、自然的悪の噴出へと回帰してしまっているということなのだ。
どういうことか。アウシュビッツの悪(アイヒマン裁判)やヒロシマ以後の核抑止力論を精査してみると、圧倒的な破壊的結末がある一方で、そこには人の意志、悪を行う意志がほとんど見当たらないのである。アウシュビッツの恐ろしさは、甚大なる悪がアイヒマンというbanalな悪によって起こされたことにある。陳腐な悪、それはアレントによればアイヒマンに見られたthoughtlessnessである。上司に気に入られたい、その種の役人根性だ。そこには甚大な悪に見合った意志は無い。だが、にもかかわらず、アウシュビッツはヨーロッパ中のユダヤ人を数百万人も収容した。しかも、それはまるで自然災害のように、意味付けも与えられず、理由もなくそうされたのだ。
また、核抑止力についても、悪を行う意志の欠如を指摘できる。抑止力のポイントは、一方で核攻撃という絶望的な悪をなしうる現実性があり、他方でそれを行わない意志とのギャップによって平和を創出するということである。しかし、それは、核戦争が実際に起こっていない限りでのお気楽な慰めにすぎない。実際にそれが何かの拍子に起きてしまえば、仮に核を行使しない意志があったとしても、絶望的な破局に至ることは間違いがないからだ。
人間の悪をなす意志が極小であり、にもかかわらず事が起きたときにはそこに絶大な悪の噴出がみられること。こうした現代的な悪を、とはいえしかし、デュピュイは自然的悪に還元しようとしているのではない。一見、自然的悪のように、人間の意志を離れて運命的に引き起こされる破局であったとしても、それはやはり人間が引き起こすものなのだということ、これを再確認しなければならないのだ。それゆえ、デュピュイは、リスボン地震に対して世界の悪を認め諦観したヴォルテールの弟子なのではなく、ヴォルテールに対して全ての悪を人間の道徳性に還元しようとしたルソーの弟子に連なるのである。
本書は、150pと短いものだが、それゆえに抽象的な箇所もあり、特に最後の人類学的-宗教的な考察は難解だ。しかし、おそらく間違いなく起こりうる決定的破局をいかになかったものにするか、予言された未来が「間違い」になるようにするか、そこに(小)哲学的にアプローチしようとした試論であると言える。*1

*1:訳語の問題としてオプティミズムを楽観論と訳しているのだが、それはミスリーディングであるということは指摘しておきたい。