'11読書日記61冊目 『カント政治哲学講義』アーレント

完訳 カント政治哲学講義録

完訳 カント政治哲学講義録

318p
総計18648p
そんなにちゃんと読んでいない。アレントの議論の射程を、講義録編集者のロベルト・ベイナーが上手くまとめてくれていた。特に、アレントは判断力を、初期の頃のように活動者の政治的判断力としてのみ捉えているのではなく、観察者=注視者の判断力として捉えていたというところ。観察者=注視者は過去を、言わば、救うことができる唯一の存在である。それはニーチェ永劫回帰の思想ともつながりを持つ。どちらも、歴史という意味のない循環する時間に意味を与えようとする試みなのだ。ニーチェベンヤミンアレント。このあたしの時間=歴史論は興味深い。

カント自身の内に次のような矛盾があります。無限の進歩は、人間という種の法則です。しかし同時に、人間の尊厳は、人間(私たちの一人一人)がその特殊性において見られ、またそうした特殊者として〔…〕人類一般を反映するものとして見られることを要求します。言い換えれば、まさに進歩という観念それ自体〔…〕が、カントの人間の尊厳という概念に矛盾するのです。進歩を信ずることは、人間の尊厳に反します。更に言えば、進歩とは物語に終わりがないことを意味します。物語そのものの終わり=目的は、無限の内にあります。私たちが静かに佇み、歴史家の後ろ向きの眼差しで歴史を振り返ることのできる地点は存在しないのです。

ここには、(美的)判断力が孕む根本的なパラドックスがある。判断力は、カントによれば、普遍法則の内に特殊を包摂することである。だが、美を判断するとき、人は予め美が何たるかを知らないのだ。例えば、ある薔薇を見たときそれを美しいと感じるのは、薔薇の種類の中でこれこれが美しいと予め定められているからではない。むしろ、特殊の中において、特殊である限りで、普遍的な美が見出されるのだ。ここでは、悟性認識の構図が転倒させられている。認識においては、感性的直観は悟性概念(カテゴリー)の内に包摂されるのだが、そのカテゴリーは予め先験的に与えられているのだ。だが、美の判断は、そうではない。構想力と悟性の偶然の、戯れ的な一致こそが美を喚起するのであり、それは特殊な事物なしにはありえないものだ。特殊な事物が、まさに特殊である限りで普遍性を担保するということ、これこそが判断力のもつパラドックスである。