'11読書日記62冊目 『カント全集15 人間学』

カント全集〈15〉人間学

カント全集〈15〉人間学

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総計19214p
人間学の位置付けは、カント自身の中でも批判期とそれ以後において異なる部分もあり、少し不明瞭である。が、言い切ってしまえば、それは世界市民として生きるために知っておかねばならない世間知(世界知Weltkenntnis)を開陳する学である。「実用的見地における人間学」という正式なタイトルが表しているように、生理学的な人間観察ではなく、「人間が自由に行為する生物として自分自ら何を形成するのか、また人間に為す能力があるがゆえに為すべきものは何か」を探求するのだ。この意味において、カントの人間学は、二つの意味でストア派的であると言える。まず第一に、自らを知り自らを形成していくという点においてであり、第二に、それが世界市民としての生き方を導くという点においてである。
そこでは、「健全な悟性/理性」から逸脱した様々な病理が分類され、事細かに述べられる。感覚・悟性・理性、それぞれの分野での逸脱が論じられ、そのような逸脱をいかに馴致していくかということが問題になるのだ。特に興味深かったのは、感覚が悟性にあたえる悪影響を述べたところで、感官の受容力が強すぎて思考が麻痺してしまうような経験が様々に明らかにされている。これは、純粋理性批判などでは見られなかった経験的な分析なのだが、果たしてこのように感覚的な問題を精緻(とは言えないまでも詳細に)論じたドイツ観念論者はいないように思われる。そして、さらに言えば、こうした感覚的強度の問題は、まさに18世紀から19世紀にかけての都市の文明化において顕著になってくるはずなのだ。そのあたりを、まだ辺鄙であったドイツから考察した所も、なかなか見逃せないはずだ。
だが、こうした「逸脱」の博物誌は、言わば人間学の消極的な側面に他ならない。もう一方で、カントの人間学には積極的な側面があり、それは前述した第二のストア派的な観点から見られねばならない。「人間学」を読んですぐに分かるのは、カントがいかに社交を重要視していたかということである。カント自身ブルジョアとの社交を生きがいにしていたところもあったのだが、彼にとって、洗練された文化とは洗練された社交の意味にほかならず、いかに社交界で会話を楽しむかということが語られているのだ。その証左として、一つだけあげておこう。下に引用する箇所で、カントは、哲学=内的対話という昔ながらの定義を脱構築してみせるのである。

精神異常にみられる唯一の普遍的な徴候は、常識(sensus communis)の欠如とそれと入れ替わりに現れる論理的強情(sensus privatus)であるが……これが精神異常の徴候と言えるのは、われわれの判断が正しいかどうか、それゆえまたわれわれの悟性が健全かどうかを一般的に吟味する試金石は、われわれが自分の悟性をまた他人の悟性と照らし合わせ、反対に自分の悟性に閉じこもって自分の私的な表象にすぎないものを基にして公的であるかのように判断を下したりはしない、という点に存するからである。

ここには、「啓蒙とは何か」で論じられた理性の公的使用の問題も絡んでくるはずだ。アレントに奈良って言うなら、哲学でさえカントにおいては社交がなければ可能にはならないのである。逆に言えば、社交を持たずただ学究的な仕事に閉じこもる人間は、実は哲学として不完全どころの騒ぎではないことになるのだ。「人間学遺稿」から有名な箇所を引いて閉じたい。

私はこの種の学者をキュクロプスと呼ぶ。彼は学問のエゴイストであり、こういう人には、自分が見ている対象を他の人々の視点からも眺めさせてくれるような、もう一つの目が必要だ。学問の人間性、つまり、自分の判断を他人の判断と付き合わせるだけの、判断の社会性はここに基づくのである。……強さではなく、一つ眼であることが、ここではキュクロプスたるゆえんなのである。他の学問分野をたくさん知るというのでも十分ではなく、悟性と理性の自己認識がなくてはならないのだ。超越論的人間学anthropologia transscendentalis。