'11読書日記63冊目 『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』重田園江

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

269p
総計19483p
これまで僕が読んできたフーコー本の中でも、特に興味深くスリリングな本だった。本書は、とりわけ『監獄の誕生』をフーコーの一番の到達点とみなして、それを中心に議論が進んでいく。フーコーの多面的な活動の中から、ばっさりと色々切り捨てて、とくに規律権力を描いた同書を中心に据える、ということだけでも潔ぎがよい。文章の節々から筆者のフーコーへの入れ込みようが伺えるし、それにもかかわらず、フーコーとちょっと距離をおいて醒めた目線で、議論を再構築していく。フーコーの本領が発揮されるのは、古典主義時代(17-18世紀)だという断定も、的を得ているように感じられる。もちろん、『監獄の誕生』だけにとどまらず、後に展開されることになる統治性や生権力などとの関連も忘れてはいない。また、フーコーが組織した監獄情報グループについて触れた終章は、フーコーの政治性とその著作との関連を、情熱を込めて真摯に描いていて、感動さえ覚える。フーコーを読むということは、別の見方を手にするということだ、という風に筆者は述べるが、まさに本書を読んでフーコーの見方がクリアになったし、これまで僕が見落としていた面をはっきりと認識させられた。
特に、僕自身蒙を啓かされたのは、『監獄の誕生』の最後あたしで議論される「監獄の失敗」についてだ。一般的に(だと思う)、この箇所は、フーコーが後に展開する自由主義的統治性の議論を先取りしたものとして読まれている。だが、『監獄の誕生』という一冊のテクストの中で「監獄の失敗」を捉えようとすれば、その解釈は収まりが悪い。筆者はそのように先走ってしまうフーコー愛好者をいさめつつ、冷静に議論を見定める。監獄の失敗とは、規律の失敗のことであり、つまり監獄があるがゆえに犯罪者がむしろ再生産されるという状況である。だが、監獄という制度が誕生してすぐの段階で、この「失敗」は指摘されてきたのだった。にもかかわらず、どうして失敗は放置され続けたのか。フーコーは、失敗の結果生まれた規律に従わない者らが犯罪者集団(delinquency)と名指され、市民社会の暗黙裡のうちに生き続けてきたことを明らかにする。しかし、それではいったいどうして監獄の失敗が黙認され、犯罪者集団が暗躍したのか。それを理解するには、この時代の新しい危機について考えなければならない。その危機とは、群衆の暴動である。労働者の運動や、貧民の暴動。これらは、社会の規律権力の規範性の拠り所となるブルジョア階級こそをターゲットにする。そこで、監獄の失敗から生まれた犯罪者たちが活躍するわけである。犯罪者たちは、時に警察や資本家に手懐けられ、暴動や労働運動の中に入り込み、スパイ活動をしたり、分裂を生じさせたりする。こうした意味で、監獄の失敗はブルジョアにとって役に立っていたというのだ。それゆえ、監獄の失敗の黙認は、統治性の一種などではなく、規律への抵抗を示す暴動を無化するための権力の戦略だったのである。
『監獄の誕生』なんて、もう四年前に読んで以来開いていないのだけれど、読みなおしてみたいなあ・・・。