デモの構成的権力

吐き気をもよおすほどの悪意の噴出を目の当たりにした。下の動画は、現代の日本社会に、おぞましく身震いさせるような純粋な剥き出しの憎悪がありえることを、生々しく伝える。
ハンディカムが揺れ、拡声器でつんざくような悪辣な声が響き、暴力のぶつかり合いがある。緊張した空気の中に、異様な不安感が醸成されている。一瞬の出来事だ。2011年9月11日。当日新宿であった脱原発デモに参加しようとしたフランス人男性と日本人女性の夫婦が、警察官に不当に逮捕された。二人の周囲には在特会がおり、「犯罪者を逮捕しろ、生きたまま原子炉に叩き込め、このウジ虫を日本から叩き出せ、早く逮捕しろ何のために警察官やっている」などと煽り立てる。警察官の大外刈りをうけて、二人が身を取り押さえられるやいなや、「タイホータイホー! おめでとうございまーす!」と嘲笑するような歓声が上がる。即座に「逮捕だけじゃなくて射殺しろ」とさらなる罵声が汚らしく響き渡る。さらには、身体を拘束された女性の腹を在特会の一人が蹴飛ばすという行為にさえ及んだという。警察は、在特会のデモのあり方が道路交通法違反に抵触している可能性を、愚かにも顧みず、拡声器によって増幅された悪意の下僕になり下がるかのように、二人を逮捕する。圧倒的なヘイトスピーチと暴力の顕現。僕は、怒りと吐き気しか感じない。
http://youtu.be/D58H9LEZFV8
http://t.co/2gdoLXR (こちらは夫妻のustインタビュー)

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僕らはこのような絶望的な悪意の噴出に、どう振る舞えば、どう立ち向かえばよいのだろうか。友人m君の非公開ブログに、脱原発デモについての鋭い指摘があった。それを手がかりにして(僕の言葉でも補いながら)、この問いへと向かっていきたい。
m君によれば、脱原発派は、二つの要求を掲げて闘うことになる。

(A)原発設置・運用の影響を受けるけれどもその決定には加われない人(一般市民)を、その決定に加われるようにしてほしい(主張が考慮される機会の保証)
(B)原発設置・運用に反対する(個別の主張)

注意せねばならないのは、脱原発派の要求は一般に(B)の内容面からのみ捉えられているが、脱原発派としては(A)をなおざりにすることは決してできないということである。(A)が無ければ、内容面での脱原発要求を通す回路が塞がれてしまうのだ。(A)の要求こそを、脱原発派、そして脱原発デモは最重要視せねばならない。このことを確かに敏感に理解していた一人は、m君も触れているように、柄谷行人である。柄谷は9.11デモの際に行ったスピーチの中で、次のように述べていた。

「デモをして社会を変えられるのか」というような質問〔…〕に対して、私はこのように答えます。デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるからです。

m君が抽出した脱原発派にとって喫緊の要求(A)や、柄谷の「デモをする社会」への変革要請は、デモクラシーへの直接的で激しい切望を伝えている。こうしたデモクラシーへの要求、デモクラシーを創りだそうとする意志を、ハンナ・アレントやトニ・ネグリら現代の共和主義者らは、構成的権力(constituent power)と呼んでいる。アレントによれば、それは政治的自由を創出する権力、市民らが政治的に活動できる場を創出するような権力にほかならない。それは、政治的決断をおこない、人々を支配させる力=権力なのではなく、人々が政治的に自由に振る舞える領域を創出する、言わば原初の一発なのである。構成的権力は、デモクラシーそのものを顕現させる。アレントは解放(liberation)ではなく、政治的自由(freedom)をこそ、唯一の革命の目的だと考えた。革命は、自由の構成(foundation of freedom)を目的としなければならないのだ。彼女は、フランス革命アメリカ独立革命を対比させる。前者は、彼女によれば、社会問題に対する解放(身分制支配からの・貧困からの解放)を目的にしたがために血塗れのロベスピエール独裁に至り、むしろ自由を喪失してしまった。それに対し、後者には、政治的自由を創設しようという強い意志、自由の空間を構成しようとする憲法(Constitution)への熱意があったがゆえに、独裁という惨事を免れたのだというのだ。
以前にもブログで書いたように、今回の一連の脱原発デモを見聞した限り、その中には、自由の創設につながるような(つまり、脱原発という個別のイシューに回収されないデモクラシーそのものを構成しようとするような)可能性がある。共産党などの主だった組織にオルグされているのではなく、様々で多様な人がデモに参加し声を上げている。原発推進派の人までもがそのデモに加わり自説を展開し、しかもそれに脱原発派の人たちが耳を傾けるといった光景まで散見されたというのだ。こうした事態は、デモ空間そのものが政治的自由を顕現させる可能性があることを伝えている。
だが、mくんも書いているように、昨今の脱原発派の言説には、(A)の条件、自由の構成への要求を破壊してしまうような、弾圧的な気配が漂い始めている。原発推進派であるならば人格さえも疑われ、非人間とさえ見られかねない雰囲気が醸成されつつあるのだ。しかし、脱原発派が、自らの政治的対立者に対する人格的攻撃や、あるいはその存在そのものへの攻撃を行うのだとしたら、それは自らの首を締めること以外の何ものでもない。m君の簡潔な要約をひこう。

脱原発でなければ人間でない」のような捉え方がもしも生じてしまうと、「脱原発ではない」という主張が自由にできなくなってしまう…

m君は、ここから、(A)の条件、つまり自由を構成する意志を持ったデモと、持たないデモとを区別することができると考える。この点において、冒頭で紹介した醜悪なデモは、脱原発派のデモから区別されうるのだ。デモという民主主義的な活動の形態を肯定するのであれば、在特会のデモも、そのデモ活動自体については否定することはできない。確かに彼らはおぞましいヘイトスピーチを行い、他者を容赦なく傷つける。だが、彼らがもしヘイトスピーチを今後一切使わずに排他的な言葉を撒き散らすのだとしたらどうか。それゆえ、本当に左翼的なデモが死活的に手放してはならないものは、まさにこの点、自由を構成する権力への意志なのである。それを手放すのだとしたら、たとえ脱原発派のデモであれ、在特会のそれと見分けがつかなくなってしまうだろう。そして、現に、両者の境界は曖昧になりつつある、脱原発派自身の手によって。

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m君のブログ記事は、ここまでで終わる。社会学者である彼は、僕より物事を数段冷静に見ている。だが、僕はあの動画を見て冷静さを失わざるをなかった。心からおぞましい気持ちになり、吐き気と怒りを感じた。最初の問いに戻ろう。こうした悪意の噴出がデモという民主主義的に開かれた政治活動において為された場合、僕らはどのようにそれに立ち向かえばいいのか。確かに、(A)の条件の有無によって、在特会とその他のデモを区別することはできるかもしれない。しかし、在特会は実際にヘイトスピーチを撒き散らし暴力を振るっているのだ。そのような、露骨な憎悪に見舞われた現実に――しかもそれがデモという民主主義的な形態を取って現れたときに――僕らはどう「対抗」すべきなのだろうか? 
かつて、ユマニスト渡辺一夫は「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか?」と問いを発した。この問いは、反語に他ならない。不寛容が血みどろの暴力をふるっても、寛容は不寛容になってはならない。寛容は不寛容のために死んだとしても、不寛容であってはならない。このように渡辺は言うのだ。だがしかし、どうしてなのか。寛容によってもたらされる自由を、寛容が汚してしまうのであれば、それは元も子もないからである。寛容という自由の空間は普遍的な訴求力を持つということを、寛容は信じ続けなければならない。一旦不寛容に見を毒した寛容を、人々が信じることはない。それはその瞬間に、寛容-自由が持つ普遍性を汚染してしまうだろう。

寛容には、勇気がいる。しかし、それは不寛容を「黙認」しているような勇気だろうか。決してそうではない。それは勇気でも何でもなく、単に無神経か無関心なだけだ。寛容の勇気とは、闘争の勇気である。ヘイトスピーチを垂れ流すデモに対しても、僕らは声を上げねばならない。感情的で侮辱的なデモに対して、同じ刀で切り返すのではなく、冷静な論理をもっておまえたちの言葉には一片の真理もないと言わなければならない。奴らの罠にはまってはいけない。挑発に乗ってはならない。そうではなくて、おまえたちの声は自由を否定している、あんな奴らの声に唆される者らはいつか自由を失うのだと、そう言わなくてはいけない。それこそが、そしてそれのみが、寛容がもたらすはずの自由を信じ続ける勇気ある態度だ。