最近見た映画、そして関西クィア映画祭

16日
吉祥寺バウスシアターで、ヴィム・ヴェンダース『パレルモ・シューティング』ヴェンダースはもう駄目なのかもしれないとつぶやきたくなるくらいひどい。一番最後、死についての幼稚な対話などは見ていて吐き気がする。映像は確かに美しいし、パレルモの街も魅力的だ。街で出会った若い女も感じがいい。だが、この監督が得意であったはずの音楽は単なるロックミュージックの寄せ集めにしか感じない。主人公のカメラマンの実存的な悩みが映像に表現されているとも思えない。期待していただけに余計にがっかりした。
18日
夜行バスで大阪へ。関西クィア映画祭を見に行く。梅田のHEPホールを貸しきって行われていたのだが、若者らが大挙して楽しんでいる街のどまんなかで、こうした映画祭が行われていることに軽い衝撃を受ける。えーやんHEPホール。お客さんはもう少し多くてもいいんじゃないの?とも思ったけれど、人が多すぎてもうんざりするので僕には快適だった。当日券1600円にはちょっとだけ涙。関西クィア映画祭は、東京のcounterpartよりもゲイ色が薄い(と聞いたし実際そのように感じた)。セクシュアリティが不明・年齢もいまいち不詳、という人たちも結構いた。フレンドリーな雰囲気があり、もっと映画祭スタッフの人とも話せばよかった。クィアの人だけではなくノンケの人たちも楽しめる映画祭だと思うので、もっといろんな人が来てより盛況になればいいなと思った。京都でも10月半ばに京大西部講堂でやるみたいなので、行ける人は是非。
この日最初に観たのは、友人が字幕を翻訳した『感染の恐怖を超えて』というアメリカのエイズのドキュメンタリー。なかなか硬派で、過去の社会運動に携わった人らのインタビューが中心に構成されていて、話も難しい箇所があり、一緒に来た友人ともどもうつらうつらする場面もあった。とはいえ、エイズという社会的な病について人々が闘争してきた歴史の重みを再確認させられたし、映画後の繁内幸治さんのトークも興味深かった。
エイズは、人間間の可視的なコミュニケーションによって感染していくということを考えれば、それは極めて社会的な病である。だがアメリカで最初にエイズが発見され報じられたとき、その「社会性」は隠蔽され、むしろ病因を個人化するような見方が強かった。エイズはゲイという、道徳的に不純で忌まわしい人々だけに起こる致死病だと思われていたのだ(今でもそう思っている人が多いかもしれない)。つまり、エイズの原因は個人の道徳的資質の問題だという風に「個人化」されたのである(個人化について言えば、それはまさに当時の新自由主義政権のストラテジーと一致する)。アメリカの保守派政権は、エイズ=ゲイ=道徳的悪=死という隠喩でその病を表象し、HIVウィルスに対してどのように医学的見地から向き合い対処していくべきか処方箋を与えなかった。感染経路を社会的に突き止めることなどもせず、病因についての情報なども遮断したのだ。だが当然、エイズはゲイだけの病気ではなく、次第に薬物使用者の注射器からも、あるいは黒人女性や移民などといった社会的に包摂されていない人々からも感染が拡大していく。そうすれば、エイズの隠喩性が含む道徳的対象も広がっていき、エイズ=性的放埒/社会的敗者=道徳的悪という表象がなりたっていく。道徳的な悪をなす人らに対して与えられた天罰=エイズが死に至らしめる、というわけだ。Act Against AIDSの運動はすべて、この隠喩を解除し、それを道徳的な判断から中立化していくことを目指してきたと言っても過言ではない。原題Sex in an Epidemicは、邦題では「感染の恐怖を超えて」と訳されている。セックスを道徳的悪とみなす保守派の欺瞞に抗して言わねばならないが、いかに安全にセックスを行うか/楽しむかということは(ゲイだけの問題では全くなく)人々の基本的な生活の一部であることは間違いがないのだ。それを認めた上で、ではどのようにsaferなセックスが可能か、どのようにエイズと付き合って生を享受していくか、これを社会的にも問い続けなければいけない。
その次に見たのは、こちらはコメディ映画『ママのお見合い大作戦』。自分の30近い息子にお見合いを斡旋しまくる母親とその姉は、ある時、息子がゲイであることに気づいてしまう。最初は愕然として意気消沈する彼女らだったが、息子にはあるがままでいて欲しい、あるがままの幸せになってほしいと決意し、今度は一転、息子のゲイのパートナー探しにゲイバーに繰り出していく(!)。ゲイ・ピープルの中でカルチャーショックに見まわれながらも、自由で楽しいゲイの人らのdecencyに気付く彼女たちの姿が、テンポよくコミカルに描かれていて、大いに笑わせてもらった。だが、後味の悪さがいくつか残ってしまった。一つには、映画の最後クィアフレンドリーな人達が、バリバリ保守的な人を家から追い出してハッピーエンドになるところ。もう一つは、クィア映画祭という限定的な場でそれが上映され、観客が大爆笑し、拍手さえ起こったところ。ゲイにとっては痛快極まりないラストであり、それは映画の常套手段でもあるのだが、保守的な道徳観を持つ人らを言わば悪玉に仕立ててしまってそれをやっつけるというのは、どこか間違っていないだろうか。
19日
引き続き関西クィア映画祭。『ボニータ 最後の夏』を見る。インターセックスの少年(少女?)と、性に関心を持ち始めた少女の交流の物語。自分の性に戸惑いながら成長していく子供たちがみずみずしくセンチメンタルに描かれている。映画としての出来もそこそこよく、アルゼンチンの音楽や美しい田舎の映像が素晴らしい。少年が最後馬で駆け去っていくシーンが心に残った。
20日
DVDで『悪魔のはらわた』。カルト的な人気を誇るらしいのだが、ホラー/スプラッター映画としては今見ると迫力にかける。後半はやり過ぎな感じでむしろ面白かったし。だが、最初の車のシーンの緊張感は半端ではなかったし、これが今まで作られ続けているホラー/スプラッターものの先がけかと思うと感慨が湧く。
21日
『愛しのソナ』北朝鮮もののドキュメンタリー。北朝鮮を美化するのでも貶めるのでもなく、北朝鮮という国と関わらざるをえない人たちの生活を淡々と追っている。かの地で生きる人らの笑顔にほっとする。最後の停電のシーンで、監督の姪ソナが楽しげに言い放つ「栄光ある停電です!」に、全てやられてしまった。