'11読書日記70冊目 『カントの啓蒙精神』宇都宮芳明

カントの啓蒙精神―人類の啓蒙と永遠平和にむけて

カントの啓蒙精神―人類の啓蒙と永遠平和にむけて

273p
総計21375p
カントの「啓蒙」概念を中心に、カントの思想を再編成した良書。ヘーゲルのカントに対する啓蒙批判の検討から始まり、啓蒙と道徳、宗教、永遠平和との関係を網羅している。カントで啓蒙と言えば「啓蒙とは何か」という小論を即座に思い浮かべるが、カントは実に様々な所で啓蒙について語っているのであり、そこには道徳哲学や人間学、歴史哲学が絡んでくるから厄介である。「啓蒙とは何か」の「敢えて賢かれSapere aude、自分自身の悟性を使う勇気を持て」という標語は有名だが、これは実はカントの啓蒙の標語のうちの一つにすぎない。カントは『人間学』や『論理学』の中では、啓蒙された人間が持つべき知恵にいたるために次の3つのモットーをあげている。

(1)自分で考えること
(2)自らを他人の立場に置き換えて考えること
(3)常に自分自身と一致して考えること

これらは啓蒙のモットーであると同時に、批判哲学のモットーでもある。(1)は当時のドイツの学校(講壇)哲学において主流であった独断論が招き入れた先験的仮像を疑ってかかれということであるし、(2)は客観性の要求を、(3)は論理的矛盾の禁止を意味しているのだ。もちろんこのことは理論理性の使用についても、実践理性の使用についても、どちらにもあてはまるモットーである。
では、啓蒙のモットーが満たされるということはいかなることを意味するのか。カントは理性の使用について人間には3つの素質があるという。それは、合目的的な道具的理性の使用である技術的素質(熟練)、自分の幸福を追求するための使用(ハーバーマスの用語で言うなら戦略的使用)である実用的素質(自愛・怜悧)、そして実践理性の命じる定言命法に従う道徳的素質である。カントは、人間の理性の究極的な素質を最後の道徳的素質においてみる。実践哲学における普遍的な道徳の可能性は純粋実践理性から導きだされたのであり、理性の最強の能力は道徳法則の導出にこそある。だが、カントに言わせれば、歴史的には人間は技術的素質に目覚め(開化)、次いで実用的素質を得た段階(文明化)であり、その次に来るべき道徳的素質の発現は未だ見られない。それゆえ、カントにとっては当時のドイツ(あるいはヨーロッパ)は「啓蒙の時代」なのではなく、「啓蒙されつつある時代」なのだ。理性の最高の能力を批判哲学の眼差しで見れば、定言命法という道徳法則によって意志を規定して行為するという道徳的素質が明らかなのに、人間の歴史はその素質を獲得する段階に至ってはいないのである。

つまりカントは、他の啓蒙主義者のように、人類の善への進歩を理論的にまず仮説として設定し、次いでこの仮説に従って人類の進歩に寄与するのが義務である、と考えたのではない。逆に、自己をも含めて人類の道徳化に向けて努力するのが現在の自分に課せられた道徳的義務であるからこそ、歴史における人類の善への進歩とその将来における完成を仮説として採用すべきだ、というのがカントの主張なのである。(p277)