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汚穢に満ちた不可能性の時代をタフにクールにユーモラスに精一杯生き抜いていたので覚えていない。
3
真面目な議論あるいは政治的な話をしているときの自分がものすごく嫌な感じの人間であるということを、いまさら知らされた。自分にとって納得がいかない議論を聞いたり問い返したりするときに、どうも無意識の内に嘲笑的というか侮蔑的な態度になっているらしい。おそらく自分の知的虚栄の優位を保ち、相手を見下していたいと心のどこかで思っているのだろう。腐っている。よっぽどこれから気を付けて意識していないと、相手を不快にさせるだろう。そしてこれまで不快にさせてきた人たちに本当に申し訳なく思う。いつからこんなに驕れる人間になってしまったのか。僕は人を馬鹿にしたり、人よりも優越感に浸るために、勉強してきたのだろうか。ファックオフ。
バイト。
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休日だけれどバイト。のあと同僚の人らと飲み会。院生が三人+25歳の二回生とおっさんメンバーで、下ネタしか言わなかったが、それも知的な下ネタであった。メガロマニアックな想像力をかきたてて話す下世話な会話は途方もなく面白い。とまれ、博士過程のイギリス文学者の話はやっぱり面白い。論文も頂いたことだし、暇を見つけて拝読したい。しかしよく飲んだ。終電がなくなり仕方なく板橋駅前のバルでワインやらを飲みまくり。朝帰り。
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ふらふらで始発で帰路に付き、とりあえずメールチェックしたら、指導教官から特大の辛口コメントが届いていて自分の論文がアカデミズムの作法に全く則っていないんじゃね問題である。ふげふげ。7万字位書いてたのにそれをもう一度再構成はしんどすぎる。憂鬱感満載である。
帰宅してから再度指導教官のメールを読み直しふたたびぐったりする。スカイプ
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色々と考え、論文を練り直す。先生の批判はやっぱりごもっともである。僕はあまりに「評論」を書こうとしていて、学術論文の作法に則っていなかったのだ。とにかく文字数を増やし、書き連ねることだけに集中していたのだが、浅はかだった。カントの言葉を自分の言葉に置き直し、しかもかっこよさだけのレトリックでそれを粉飾していた。アカデミズムの作法なんて、あるいは文学部哲学科的なテクスト崇拝なんて糞だと思ってきたが、そういう考えこそ糞だったことに今更気づく。今更気づいてばかりの一週間である。指導教官と面談を再びしてもらい、構成などを相談。のあとSと学食でご飯。TPPの話など。
そういえば、昔心に刻みつけたはずのことを、僕はすっかり忘却していた。受験生のとき、京大英作文の添削をしてもらっていた塾の英語の先生からこう言われたのだった。「お前たちは、いつも自分の個性を見てくれどうして俺の個性を評価してくれないんだと叫んでばかりだ。そうではない。お前たちは自分のことを評価してもらいたいのなら、まずは評価する側が求めている標準にのっとって書かないといけない。共通のフォーマットに従って良いものを書くんだ。フォーマットの中で自分の個性を出すことを考えろ。本当の個性などというものは、評価する側の標準を満たしてからだ。それもしないで俺のオリジナルを見ろなどとうるさく喚いても、誰もそんなものは評価しない。」