'11読書日記79冊目 『カント『判断力批判』と現代』佐藤康邦

321p
総計23599p
判断力批判』ほぼ一本に絞って注解的に、しかも特にその目的論的思考に注目して考察が進む。第三批判の、第一・第二批判に比べた時の分かりにくさというか異様さというかは際立っている。内容としてもそうだし、カントの企図そのものの分かりにくさもあきらかに前二作とは違う。もちろん第一批判は飛び抜けて難しいのだが、その難しさは論理展開の難しさにあるのだが、『判断力批判』のそれは批判哲学内部での体系的な位置付けや認識能力としての「判断力」というそもそもの出発点に起因するのだ。本書を読んでも、おおなるほど明快!という感想はえられないし、むしろ混乱するようなところも増えてくるのだが、ヘーゲル現象学に親しんだ筆者のコメンタリーにはなかなか鋭くうならされるところもある。例えば

〔『判断力批判』第七十七節において〕、われわれは、自分の認識形式と自然とが合致するのはそもそもいかなる根拠によるのかという問いの前に立たされることにもなるのである。この問いの意味するところは何かと言えば、『純粋理性批判』が自らの展開の軸としている「アプリオリな総合判断はいかにして可能か」という問いを、さらに、「アプリオリな総合判断などそもそも可能なのか」という問いの次元にまで遡らせるということであると言えよう。それによって、われわれはこの世界の内に自らの支えを見いだせるものなのか、それとも一介の異邦人にすぎぬ者なのかということが問われる。

そして、このアプリオリな総合判断の可能が、ある種の循環――ハイデガー流の解釈学的循環――を孕まざるをえないということ、しかしその循環を認めることをカントの批判哲学は回避する。例えば、『判断力批判』序論――序論が一番難解でおよそ訳がわからないことをいっぱい言っているのだが――でこのようにカントが言う場面がある。

この自然と我々の認識能力との合致(Zusammentimmung)は、判断力によって、判断力が経験的法則に従う自然を反省するために、アプリオリに前提されている。というのも悟性はこの合致を客観的には偶然的なものとみなしており、判断力だけがその合致を超越論的合目的性(主観の認識能力に関する)として、自然に帰属させるからである。こうした合目的性を前提としないと、我々は経験的法則によって整理される経験と、これらの法則そのものの研究とに対する手引きを持つことができなくなるだろう。(Ⅴ, 185)

これに対する筆者のコメント。

主観・客観の合致が我々の経験的認識に由来するものではなく、われわれがアプリオリに前提してしまっているものであるというように、その主観的性格の側面が強調される反面で、その主観的活動を支えているものとして主観・客観の合致が再び客観の側に想定されている。ここには、ある種の循環があるはずである。それとともに、自然に合目的性を「帰属させる」というように、「物自体」にまで踏み込んでしまう次元での想定がなされているとも受け取られるものがある。ここまま行けば、カントの体系構成は瓦解しかねないであろう。しかし、そこでカントは踏みとどまる。ここに循環を認めることも、また合目的性を物自体の規定としてしまうような「構成的原理」への転落も拒否されるのである。

非常に興味深い示唆を含んでいる。こうした循環は、カントが『判断力批判』「自然目的という概念を我々に対して可能とする人間悟性の特質について」という表題を与えた第七十七節にも見受けられる。そこでは神的悟性(直観的悟性あるいは知性的直観)と「人間悟性」が比べられている。