'12読書日記4冊目 『中国化する日本』與那覇潤

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

319p
総計1233p
「中国化」が意味するのは、宋代の統治体制(皇帝の権力集中・身分制度撤廃・科挙制度・官僚制・経済自由化)に近づくということなのだが、宋代移行の中国をひと括りに(明は例外)「中国化」というのが大雑把すぎる。分析格子として機能しているのだろうか。平安から江戸を反-中国化として議論するのは面白いが、明治維新を(近代化ではなく)「中国化」として捉えるのは正直疑問である。西洋化という代わりに、中国化と積極的に言わねばならない理由は、日本に近代があったのかなかったのかという不毛な議論を回避・相対化するためであるが、だからといって「中国化」として明治維新を見るのは端的に誤りではないか。議会制民主主義の導入について考えてみれば良い。中国化には議会制民主主義は存在しない。だが筆者は「議会制民主主義という意味での「選挙」は、たしかに中国には存在しません。しかしですよ…そこまで魅力的ですか?」として茶を濁すだけである。さらに、かりに中国化によって明治以降の日本がある時期まで当の中国よりも発展してこれたのかよく分からない。というかなぜ(中国化していたはずの)中国がこれまで世界で負け続けてきたのか全然説明されない。もっと言えば、「中国化」ということによって西洋中心主義を相対化するにせよ、そして何度もそれが親中・反中とは関係ないとは言われているにせよ、「中国化」する日本の将来は明るくないと展望する点で、「中国」を反面教師にして槍玉にあげ、無益な「文明の衝突」史観に与していると言わざるをえない。「中国化」と同じように重要で、しかもこちらは一定の説得力のある「(再)江戸時代化」にしても、結局これまでの保守派の議論――日本の「イエ」の強さ――と何が違うのか、それをただキャッチーに言い換えただけではないのか。
そもそも語り口が好きではない。「民度」という全く不快な言葉も何度か出てくるし、一貫してシニカルな口調が僕の肌に合わない。あるいは、例えば江戸の記述にいちいち括弧書きで「(やっぱり今日のネット社会に似ています)」とか、「(「地元の有権者が反対するから」という代議士さんのおかげで、支出は減らせず歳入も増やせない、今の某国とも似ていますね)」などと書かれるのがうっとうしい。歴史記述において現代を投射して過去を分析ないし語るという解釈学的循環にむとんちゃくすぎる(たとえそれが面白い語り口と、筆者が思っているのだとしても)。