'12読書日記5冊目 『ヘーゲルと近代社会』チャールズ・テイラー
- 作者: チャールズテイラー,Charles Taylor,渡辺義雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/11/07
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (9件) を見る
総計1581p
コミュニタリアンの代表格、チャールズ・テイラーによるヘーゲル本(のうちの一冊。彼にはそのままずばりなタイトルで『ヘーゲル』という大部の研究書があるのだが、こちらはそれの短縮版という感じになっているらしい)。第一章から第二章にかけてヘーゲルの基本的な思想が解説されていき、それが非常に分かりやすい。テイラーは、ヘーゲルを啓蒙主義とロマン主義を批判(or止揚)した哲学者として捉え、その筋で解説が進む。
第二章で彼は、ヘーゲルの"現代的意義"*1についてこのように言う。
ヘーゲルが今日重要であるのは、われわれが原子論的、功利主義的、道具主義的人間観と自然観から起こる展望の幻想と曲解を批判する必要を繰り返し感じているのに、同時にそれらがロマン主義の反=幻想をしぼませながら、絶えずそれを生み出しているからである。ヘーゲルがまさにこうした批判をすることに[おいて…]彼はわれわれに語るべき何事かを持っているのである。
テイラーの見立ては次のように進む。啓蒙主義(原子論的・功利主義的・道具主義的人間観)の産物である近代(資本制)社会において疎外(や抑圧)が生じるが、疎外を回復するために呼び出された共産主義や全体主義はいっそうひどい災厄を引き起こしてきた。後者が壊滅的な人間の破壊を招くのは、それがロマン主義的な絶対的自由あるいは完全な自己表現という幻想を根に持っているからだ……。ヘーゲルは宇宙的な主体、絶対的な主体(絶対精神、理念)という存在論的な大いなる秩序の哲学を打ちたてたが、現代においてそうした宇宙的な理念を信奉することはできない。だが、ヘーゲルのそういう一面を捨て去れば、啓蒙主義(とフランス革命あるいはロマン主義)が掲げた「絶対的自由」への彼の批判は有益でありうる、というわけだ。絶対的な自由はすべての障害からの解放と絶対的な自律(自己依存)を要求するが、そうした自由は向かうべき先がなく、実践の基準(どのように政治を動かすべきかの基準)を欠いているがゆえに、フランス革命の恐怖政治のような徹底した破壊に行き着いてしまう(し、あるいはスターリニズムや全体主義を招来する)。絶対的自由は端的に空虚であるが、人々に同質性と絶対的一致を要求するがゆえに、そこからこぼれ落ちる人々らを破壊するというのだ。
そうした自己規定的な自由をヘーゲルは人倫(Sittlichkeit)という概念で批判した。カントの道徳哲学が形式的な自律にとどまり(ヘーゲルはそれをMoralitatと呼ぶ)具体的な行為指針を示し得なかったのに対して、ヘーゲルの人倫は人間が共同体の中の有機的な一部として全体と連関を保っていることを意味している。そして、このヘーゲルの人倫を引き継ぎつつ、テイラーは絶対的自由(あるいは自己規定的自由)に代えて、埋めこまれた自由(situated freedom)こそを求めるべきだというのである。*2
埋めこまれた自由を含む様々な考えに共通しているのは、自由な活動は、私たちの限定する境遇(our defining situation)を受け入れることの中に求められるということである。
テイラーの自由概念は、ヘーゲルの人倫と同様「有意義な区別の感覚を取り戻し、その結果その政体のもろもろの部分的共同体[…]が再びその構成員たちのために、彼らを全体に結びつける仕方で、関心と活動の重要な中心となるようにすること」に眼目があると言えるだろう。やっぱりコミュニタリアンである。そして、人倫あるいはsituated freedomに何か望みを託すことも、ちょっとやっぱりなあ・・・という感じがしてしまうのもサンデルと同じ(とか言うと怒られそうですが)。
本書の問題意識は明確で、この本がテイラーの重要な元ネタの幾つかを明らかにしているようだ・・・が、僕としてはヘーゲルの解説本として期待していたので、半分肩透かし。第二部後半から第三部にかけてはテイラー自身の議論になっていた。もちろん前半がヘーゲルまるわかり感がすごくあって良かったから、ちょっとがっかりということなんですが(あと不服を言えば、ヘーゲルの人倫の話はするくせに、ポリツァイの話をしないのはずるいと思った)。