'13読書日記33冊目 『三つのヘーゲル研究』テオドール・アドルノ

三つのヘーゲル研究 (ちくま学芸文庫)

三つのヘーゲル研究 (ちくま学芸文庫)

303p
残念ながら版切れになってしまっているようだが、本書はヘーゲルをどう読めばいいか、どう読めば面白く読めるかを、アドルノにはありえないほどの分かりやすさで――それは翻訳者の方針(とにかく短く切って訳す)によるところが大きいのだが――示してくれる。はっきり言えば、『啓蒙の弁証法』のあのわけのわからなさに比べて、はるかに読んで益するところの大きい――「益する」という発想こそ本書でアドルノは批判するが――本だと思う。
アドルノヘーゲル読解の肝は、ヘーゲルの叙述の中にある非同一性に徹底してこだわるということである。弁証法は非同一性を媒介にしてそれを同一性に回収するかに見える。一度は対立させられたものが、より大きな合一への媒介になるかに見える。しかし、よく冷静に読んでいけば――つまり「ヘーゲルは全体的にこういうふうなことが言いたいんだろう、同一性へと止揚したいのだろう」というような如才ない読解をすぐさま停止して、書かれていることの分からなさにとどまれば――ヘーゲルの至る所に弁証法を破壊しかねない非同一性が、無造作に横たえられていることに気づくはずである。その非同一性にこそ、滞留すべきなのである(ジジェクのカント−ヘーゲル読解はまさにアドルノの方針に、ラカン精神分析とともに従ったものだろう)。こうした読み方は、もちろんヘーゲルに寄り添いながら、「ヘーゲルを逆さに」して読むことにほかならない。「つまり、どんなに形式的に述べられていようと、すべての論理的操作を、その核となっている〔概念的でない〕経験に還元するという風にも読まれなければならない。」

ヘーゲル弁証法のこうしたなだめがたい、弱い部分のうちに、この弁証法の最大の真理がある。すなわち、弁証法は不可能であるという真理がある。もっとも、たとえそうだとしても、自己意識の弁神論であるヘーゲル弁証法には、それをはっきりと自覚することはできないのであるが。

つまり、失敗作としてヘーゲルを読め、というのだ。
さらに、アドルノの提案は、絶対的観念論を象徴するものとして悪名高い「精神」を、社会として読めということも教える。ヘーゲルにおいて、精神は、すべての個別的契機を媒介すると同時に構成し、それらによって先験的にまとめあげられたものである。この部分は、いわば社会構築主義の先駆として読める、というのである。いまとなってはやや陳腐に響くかもしれないが、これが60年代初頭になされた提案であるということを思えば、先見の明ありと言わざるをえない。しかし、こうしたアドルノの提案――「精神」を社会のアレゴリーとして読む――は、構築主義を超えて、むしろラクラウやムフのようなポストマルクス主義的な政治理論をさえ、照らしだしている。アドルノによれば、ヘーゲル弁証法は失敗している。絶対精神は、対立する主体と客体の同一という宥和のなかに現れ出てくると言われるが、ヘーゲルはそれを言わばほらふき男爵的に、強引なまでに自らの体系を保持するために、力技でまとめあげているのであり、よくよく読めば、同一性にはまったく回収されない非同一な個別の経験が叙述のなかに散乱している。こうした非同一的な契機に目をつぶって「ヘーゲルはここでも正反合の図式でやっているのだろう」などと知ったかぶった入れ知恵で読むのであれば、ヘーゲルを読む意味は全くない。したがって、精神を社会のアレゴリーとして読むのであれば、そして逆に失敗した弁証法として社会を読むのであれば、

市民社会は、敵対性を含む全体性である(eine antagonistische Totalität)。

社会は様々な矛盾、様々の不均衡によって単に格差を深め、攪乱されるだけの存在ではない。すなわち社会は、格差がないように均等化された全体として全体性となるのではなく、それが様々の矛盾をそなえていればこそ、全体性となるのである。

つまり、全体性は同一性に回収されない非同一的で敵対的な契機を保っていながら/保っているがゆえに、全体性として成り立っているというのである。これはまさにイデオロギー批判へとつながる批判力を呼び覚ますような、ヘーゲル読解である。

ヘーゲルの哲学は、敵対的現実が持つ非同一性にぶつかって、散々苦労した末、どうにかやっとそれをまとめ上げるのだが、この非同一性は、実は真なものではない全体、むしろいつわりであって、正義と絶対的に対立するあの全体がもつ非同一性である。ところが、このほかならぬ非同一性が、現実の中では同一性の形式を持ち、第三者も調停者もその上にいない、なにもかも包含する性格を帯びるのである。こうしたまやかしの同一性が、イデオロギーの、あるいは社会的に必然的な仮象の本質である。
この仮象は、矛盾を和らげて絶対者にすることぐらいでは打ち破れない。それはただ、矛盾が絶対化する過程を通ってのみ、打ち破ることができるのである。

もちろん、こうしたヘーゲルの研究方針をアドルノは、当時の哲学的潮流に対して対抗的に提示している。それは一方で言語哲学のような明証判明さを求める哲学であり、他方でハイデガー存在論である。明証判明なもの、あるいは直接的に、あるいは直観的に理解される存在といったものは、ヘーゲルの認識論において最も低次のもの、即自的で、自らが媒介されていることを知らないものである。次の箇所は、ヘーゲルを読むということは何かを述べながら、同時に、哲学するということについてなされた、敗戦濃厚な、しかしそれでしかありえないような定義である。

本当のことを言うと、哲学というものは、明瞭性などを要求される筋合いのものではないのである。むしろそれを限定的に否定すべきである。哲学はこれを、叙述においても、おのれの課題としなければならない。すなわち哲学は、自分が何を言いえないかを具体的に言わなければならない。そしてさらに、明瞭性そのものにも内在的限界があることを言明するよう努めなければならない。哲学は個別科学の成功におびえきって、この科学から基準を借りてきたあげく、それによって破産に追い込まれるくらいなら、むしろこうはっきり言明した方がいい。人びとは、哲学があらゆる瞬間に、あらゆる概念と命題において、自分の目指すものを手に入れると期待するかもしれないが、哲学はこうした期待を裏切るものであると。