'14読書日記7 『ヘーゲルとその時代』権左武志

ヘーゲルとその時代 (岩波新書)

ヘーゲルとその時代 (岩波新書)

ヘーゲルの政治思想を中心に、ドイツの政治史をコンテクストとしておさえながら、概観する。政治思想といっても、『精神現象学』は簡便に見通しが立てられているし、カントやフィヒテシェリングなどとの対決姿勢も同時に描かれている。ヘーゲル以外の他の思想家について紋切り型の叙述が見られる(例えば、スミスは自由放任主義者だ、など(これはもちろんヘーゲルがそう見たという可能性もあるが、一言断って欲しかった))が、概観するには便利な本だと思う。ヘーゲルの受容史(歴史主義、マルクスニーチェ)についても章が割かれている。
カントはこの種の本が割かし多いのだが、ヘーゲルに関してはそうでもないのかもしれない。
カント入門 (ちくま新書)

カント入門 (ちくま新書)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル (講談社選書メチエ)

本書で引っかかるのは、マルクスヘーゲル批判への批判とヘーゲルの現代的意義についてである。ひとつめ。

だが、マルクス主義がロシアのボリシェヴィキを担い手として体制化するに従い、思いもよらない問題点が次々に明らかになってきた。第一に、…「官僚制化」…第二に、一党独裁…第三に、マルクス主義が国家公認の「正統」…他の世界観は「異端」…。こうした共産主義体制の問題の思想的要因としては…ロシア特有の伝統も考えられる…。だが、マルクス自身、異なる意見をもつ他者の権利を理解できず、誤ったヘーゲル批判から出発した点も挙げられるだろう。例えば、①「人間的解放」という最初の目標は、分離に媒介された統一でなく、逆に信仰・思想の自由を分離の権利として否定したため、自他未分化な状態へ回帰するよう願うロマン主義へ退行した。また、②市民社会を利己的個人の領域と見て、国家と再統一しようとしたため、社会の自律性を否定し、国家が社会全体を統制する全体国家を作り上げた。さらに、③カント以降の観念論を否定し、現実世界を歴史の土台と考えたため、支配的な時代の大勢を歴史の必然とみなす必然史観へ行き着いた。

まず、マルクスの考えたこととマルクス主義、そして共産主義国家体制はそれぞれ別々のものとして扱われるべきではないのか。また、「マルクス自身、異なる意見をもつ他者の権利を理解できず」というのは、どのあたりの著作を指しているのか。さらに、マルクス自身の思想が共産主義国家体制への問題点へと結びついたという批判のうち、①はどのようにそうした問題点に関わっているのかよく分からない。仮に①の批判があたっているとして(疎外からの解放というもののロマン主義的性格はよく言われる)、ヘーゲルの枠組みで(つまりバウアーの枠組みで)「ユダヤ人問題」は満足の行く解答が与えられるのか。②はマルクスの考えというより(例えば『ブリュメール18日』などと比べて)、むしろレーニン(『国家と革命』)なのではないか。マルクスが批判されるべきなのはむしろ、人間的解放以後の国家ないし政治についてあまりにも語ることが少なすぎたということではないか。また、③については、確かに唯物史観が必然史観であるにせよ、同じことはヘーゲルにも言えるのではないか。加えて、マルクスヘーゲル批判を批判するのであれば、やはりフォイエルバッハテーゼに触れた上で、つまりヘーゲルの宗教論ないしは神義論的側面へのフォイエルバッハの批判とそれに対するさらなるマルクスの批判に触れた上で、それでも根本的にマルクスの批判は当たっていないのかを検討して欲しかった。
本書は、こうしたマルクス批判を前提として、今度はヘーゲルの現代的「再評価」について語られることになる。

先に述べたように、もし共産主義体制の問題点が、マルクスの誤ったヘーゲル批判に起因しているとすれば、冷戦の終焉から得られる歴史的教訓は、ヘーゲルの再評価につながるはずである。

冷戦の結果、仮にマルクスの思想に根本的な問題があったからといって、それが必ずしもヘーゲルの再評価を呼び起こすわけではないということはとりあえず置いておいて、やはりその「再評価」には引っ掛かりを感じる。とりわけ本書は、ヘーゲルの歴史哲学に関してその意義を解く、最近では珍しいタイプの議論をしている。

さらに、マルクスが再転倒しようとした観念論の歴史哲学は、歴史を超えた理念として精神の自由を前提する時に初めて、その実現の必然性を導き出すことができるとヘーゲルにより考えられていた。そこで、生産力の発展による社会変革を必然的に進行する過程だと信じる必然史観の破綻から、「歴史における理性」を想定する超越論的歴史哲学の意義が再び見直されるはずだった。

再び、マルクスの失墜に伴いヘーゲルの再評価の機運が高まるというのにはどういう因果関係があるのかよくわからないが、本書はとりわけ、この超越論的歴史哲学を再評価すべきだと主張しているように見受けられる(もしかしたら再考の余地がある、という程度のものなのかもしれないが)。例えば、歴史認識において、所与の事実を把握することなどできず、そのためには歴史認識のカテゴリーが必要となると述べられた後、このように言われている。

したがって、自由の理念というカテゴリーを、歴史の外部にある歴史の究極目的として、すなわち「歴史における理性」として想定する時に初めて、われわれは、人類の歴史全体を自由の理念が実現されるプロセスとして統一的に把握できる。この意味で、ヘーゲルは、精神の自由という歴史を超えた価値が歴史の発展を方向づけるという近代自然法思想の継承者であり、「人類が自ら招いた未成年状態から脱却」するというカントの言う「啓蒙」のプロジェクトの続行者である。

あるいは、ヘーゲルオリエンタリズム的な側面を認めつつ、二十世紀の非西欧圏における脱植民地化の動きを自由の実現プロセスの一環である「歴史における理性」として説明できるとした後、次のように言われる。

「歴史における理性」という歴史の方向性は、ヘーゲルが考えたものと完全に同じ内容である必要はない。われわれは、この二世期の歴史的経験を踏まえた上で、現在の地平から「歴史における理性」をよりよく理解できるはずである。いずれにせよ、ドイツ啓蒙が出発点とした理性の自由な使用への信頼…こそ…ドイツ古典哲学から継承すべき最良の遺産だと考える。

こうした言明は、ヘーゲルについてというよりもむしろ、カントにおいて当てはまるのではないか。確かにカントは歴史認識のカテゴリーについて議論しなかったが、歴史の反省的判断の原理として「自然の意図」を置いた。ヘーゲルも、「自由の理念」あるいは「歴史における理性」ということで、そのようなことを言っているのかもしれない。が、カントとヘーゲルが袂を分かつのは、カントにとって歴史の判断力はあくまで反省的なものであり、構成的ではないということ、他の解釈に開かれているということである。ヘーゲルにとっては歴史は絶対精神が必然的に展開していく過程であろう。それゆえ、仮に本書の言うようにヘーゲルの「歴史における理性」という発想を「ヘーゲルが考えたものと完全に同じ内容である必要はない」ものとして受け継ぐなら、つまり、必然性を放棄するなら、それはもはやヘーゲルというよりカントにならないか(カントは「歴史哲学」という言葉を用いず、それを弁神論としても捉えなかったし、哲学者の歴史は理念ではなく現象にこそ着目するとした点で違いはあるにせよ)。さらに、「歴史における理性」の議論がカントの啓蒙のプロジェクトであるというのは、どのような意味なのか。歴史において自由が発展してくるという言明と、実際に市民の間で自由な思考が広まるということは別なのではないか。それとも、ヘーゲルの歴史哲学は、読者を未成年状態から脱却させるということなのだろうか。さらに、これはカントの目的論的な歴史判断にも妥当することだが、第二次世界大戦破局、あるいはアウシュビッツ破局、最近では原発事故の破局でもいいが、それらの破局のなかに「歴史における理性」を見出すこと、つまりそれらを「自由の理念」の実現プロセスとして見出すことほど、反倫理的なことはないのではないか。アウシュビッツという否定性は、どのようにして止揚されるというのか(まさかイスラエルの建国に、というわけにはいかないだろう)。だからこそ、アドルノやリオタールは弁証法的な歴史哲学に反対したのではなかったか。「歴史=物語」論が「歴史における理性を否定」したことは確からしいにしても「歴史を「小さな物語」に断片化した結果、時代の大勢に追随する現在中心主義をもたらした」というのは、どこまで根拠のある言明だろうか(リオタールの『文の抗争』は、明らかに歴史修正主義者との対決のコンテクストで書かれてい)。あるいは、「世界史を統一的に把握する歴史科学」とも言われているが、今でもそのような大きな課題を歴史科学は背負い込んでいるのだろうか。