'12読書日記64冊目 『自由であることの苦しみ』アクセル・ホネット

自由であることの苦しみ―ヘーゲル『法哲学』の再生 (ポイエーシス叢書)

自由であることの苦しみ―ヘーゲル『法哲学』の再生 (ポイエーシス叢書)

183p
総計17456p
ロック界のアクセルと言えばローズだが、思想界のアクセルはホネットである。と言ってもホネットを読むのは初めてで、ちょっと楽しみにしていたのだが、イマイチであった。
本書の目指すところは、ヘーゲル法哲学』のなかにある現代的意義を見定めることである。リベラル派のカント回帰(ロールズハーバーマス)に対して、コミュニタリアンは(テイラーを除いて)ヘーゲルに回帰しようとしない。回帰したとしても『法哲学』には触れないでおく、というのが筋書きである、とホネットは言う。『法哲学』の評判を悪くしているのは、ホネットによれば、その論理学を下敷きにした弁証法の構成であり、またすべてが国家に回収されてしまうところだ。
しかし、にもかかわらず、ヘーゲルはその中でなお現代的に見て意義のある思索を展開しているのであり、それこそが明らかにされねばならない。ヘーゲルは、周知のように、権利としての自由も、また内面道徳としての自由(カント)もともに不十分な自由であるとして退けた。ヘーゲルが両者に変えて提起するのが、人倫の概念であり、それは他者の中においても自らであること、そのコミュニケーション的な様態である。ホネットはこうした承認のモーメントを持つ人倫概念の中に、ハーバーマス以来のコミュニケーション的自由を見出そうとするようだ。さらに、ホネットは『法哲学』において人倫が三様態で(家族-市場-国家)展開される部分に、そしてそれが展開される仕方に、ヘーゲルの現代的意義を見出そうとする。前者について、ヘーゲルは、彼が退けた二つの自由(権利・道徳)が社会的に浸透することによって、人々の中に「無規定性の苦しみ(訳書では「自由の苦しみ」と併記されている)」が蔓延しているという、いわば社会病理的な診断を下す。そうした苦しみから人々はロマン主義的な神秘主義や政治的狂熱の中に身を投じてしまう。そうではなく、国家が市場や家族とともに保証しなければいけないのは、人倫としての自由なのであり、ホネットはそこに「近代の規範理論としての人倫の学説」を読み取ろうとする。さらに、ホネットの解釈によれば、人倫概念へと至る『法哲学』の論理構造は――ヘーゲル自身はその言葉を用いていないが――「治療的機能」を持つ。つまり、二つの自由概念によって人々が「無規定性の苦しみ」を味わっているという社会病理的診断を下し、その処方箋として二つの自由概念からの解放を提示するとともに、そうした形式的自由から実在的自由=人倫へと目をやるように仕向ける、というのである。
大筋はこんなところなのだが、ホネットも認めるように、最終的にヘーゲルは国家で終わってしまうのであり、しかもその場合の「人倫」とは、結局教養官僚として国家に奉仕することとなってしまい、政治参加への自由はそこでは無視されてしまう。ホネットの議論もこうしたヘーゲルの議論の不首尾を指摘して終わるので、なんというかヘーゲルの「可能性の中心」が取り逃されてしまっているような感じを受ける(そういう可能性の中心があるとして)。というか、この程度の議論ならテイラーを読めば事足りるのではないかという気さえする(テイラーは「承認」の側面をホネットほどつよく押し出さないとはいえ)。また、承認に注目するにしても、ヘーゲルの愛と婚姻の関係に関する議論などは――こちらがロマン主義的すぎるのかもしれないが――、それをコミュニケーション的自由の範疇に収めていいのか、という気もする。ホネットを読むよりも、真木悠介見田宗介)の初期の著作を読んだほうが優れた理論的知見は開かれるのではなかろうか(とりわけ最終部に展開される「最適社会とコミューン」)。
ヘーゲルと近代社会 (岩波モダンクラシックス)

ヘーゲルと近代社会 (岩波モダンクラシックス)

人間解放の理論のために

人間解放の理論のために

(しかし最近刊行された見田宗介著作集にはこれが収録されていない。むしろこれこそ収録されるべきではないかという気がするが、本人が嫌になったのだろうか)