'12読書日記63冊目 『判断と崇高 カント美学のポリティクス』宮崎裕助

判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))

判断と崇高―カント美学のポリティクス (新潟大学人文学部研究叢書 (5))

261p
総計17273p
本書は、カント『判断力批判』の崇高論を取り上げ、それとフランス現代思想との格闘を経て、美学と政治という問題圏においてシュミットからデリダへと「ポリティクス」を紡いでいく。カントプロパーの研究書ではなく、むしろフランス現代思想の研究書として読まれるべきだろうが、カントについての知見も十分に開いてくれる。
例えば次のようなはっとさせる一節。

しかし判断力批判は、厳密には理説のないところで一体何を批判するのだろうか。批判が理説にとって代わるのなら、いまや批判すべきは批判自身である、ということになるだろう。判断力の批判は、判断力を自らの批判対象としてそのつど自己立法的に措定することでみずから批判に付す、という反省的な構造のうちに実行されるのである。

本書の議論の要点は、『判断力批判』が否定神学的な方法*1で表象しえないものを表象するものとして「崇高」を捉えるものであるとして、しかしそこにはそうした弁証法的な論理に解消され得ないまったき否定性としての「吐き気」が付きまとってはなれない、ということにある。筆者はそれを「パラサブライムparasublime」と呼ぶが、それは崇高なものの表象理論の内側にありながらその臨界点・限界を指し示す「超越論的な吐き気」である。カントの『判断力批判』はただでさえも色々と難しいのだが、その中で大筋の議論を示しつつもカントが取り残し続けた異物を発見し、それをもとにカントの議論を再構成する手つきは鮮やかなものだ。カントの古典的著作の読解から現代思想へと(やや力技ではあるが)持っていく構成も、僕にとっては魅力的に映る。社会思想史だけの研究者になるのか、それとも現代の何かを論じていこうとするのか、悩み多い日々である・・・。
(急いで付け加えると、「吐き気」をめぐる思想史という提題(第四章)や、シュミットとデリダの「決断」の思考についての論考(第六章)なども非常に面白く勉強になりました。デリダの議論は、僕には向かないなあということをぼんやりと感じました。)

*1:筆者はこの言葉を一度も使ってはいない。