'12読書日記20冊目 『イデオロギーの崇高な対象』ジジェク

イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

353p
総計5602p
タイトルの通り本書の照準は「イデオロギー」論にあるのだが、同時にそれはラカンの理論体系への詳細なコメンタリーにもなり、最終章(ここは非常に難しい)ではヘーゲルの「精神は骨だ」という有名な言葉をめぐる解釈にもなっている。一言で言えば*1ジジェクのテーゼは、必ずや象徴化に抗する現実的なものthe realが存在する、ということに尽きるのだが、このことがどう「イデオロギー」と関係があるのかが重要である。
マルクスが『資本論』のなかで述べた「彼らはそれを知らない、しかしそれをやっている」は、イデオロギーのもっとも基本的な定義である。イデオロギーは社会的現実についての誤認であり、しかもその現実の一部である。それゆえ、イデオロギー批判は、イデオロギーの色眼鏡を取り去って社会的現実そのものを直視せよというのではなく、どうして現実がイデオロギー的なまやかしを通じて構成されているのかを明らかにすること、イデオロギー的な空想の出所を明らかにすることを目標にしなければならない。普通このイデオロギー的な社会的事実の誤認は、マルクスのテーゼの「彼らはそれを知らない(誤って知っている)」の部分に対応していると考えられるだろう。しかし、ジジェクによれば、このような見方はイデオロギー特有のある幻想を見落としている。それは「それをやっている」の方に潜む幻想である。例えば、貨幣の流通について考えてみる。人は貨幣を使うとき、そこにはなんら神秘的なところなどなく、それが単に商品の一部への権利を与えるにすぎないものであることをよく知っている。だが問題は、まさに貨幣が単なる記号に過ぎないと知りながら、その経済活動において、まるで貨幣が実際に富そのものであるかのように振舞ってしまっているということにある。つまり、人が「知らない」のは、貨幣の物神性ではなく、社会的現実(商品交換という行為)そのものにおいて、行為の水準で物神的な幻想に従っているということなのだ。

したがって、ここには二重の幻想があるのだ。現実に対する私たちの現実的・実際的な関係を構造化している幻想を見落としているということ。そしてこの見落とされた無意識的な幻想が、イデオロギー的空想(ideological fantasy)とでも呼びうるものである。(p53)

逆に言えば、イデオロギー的空想の場所が「知らない(誤って知っている)」のレベルにではなく、「やっている」の水準にあるのだとすれば、社会的現実はまさにこの空想によって構造化されていることになる。ここからがジジェクの真骨頂であるが、このことをジジェクラカンのテーゼ「夢と現実の対立において空想は現実の側にある」を援用する。一般に夢は現実からの逃避であり、夢から醒めるのは現実の外的刺激が強くなるからだと考えられている。だが、ラカンの解釈は全く逆である。夢は人の睡眠を長引かせるようにストーリーを持った構造をつくりあげるが、夢の中で人は、外的な現実よりもはるかに恐ろしい自らの欲望に出会ってしまう。つまり、人が夢から醒めるのは、おぞましい自分の欲望から逃げるためだというのだ。ラカン-ジジェクはそのおぞましい自分の欲望を、現実界the Realと呼ぶ。

彼は目覚める。恐ろしい夢の中で姿をあらわす、自分の欲望の〈現実界〉から逃れるために。眠り続けるため、自分の盲目を維持するため、自分の欲望の〈現実界〉へと醒めないようにと、彼はいわゆる現実realityの中へと逃げこむのである。〔…〕「現実reality」とは、われわれが自分の欲望の〈現実界〉を見ないですむように、空想がつくりあげた目隠しなのである。(p73)

イデオロギーについてもこうした夢と同じ機能が当てはまる。

イデオロギーはその根底的な次元において、われわれの「現実reality」そのものを支えるための、空想的構築物である。イデオロギーは、我々の現実の社会的諸関係を構造化し、それによってある堪えがたい、現実Realの、あってはならない核〔…〕を覆い隠す「幻覚」なのである。イデオロギーの機能は、我々の現実からの逃避の場を提供することではなく、ある外傷的な現実Realの核からの逃避として、社会的現実そのものを提供することである。(pp74-75)

それゆえ、イデオロギーを夢のようなものだと決めつけて、「目を醒ませ、正しく現実を見よ!」などと言ってもイデオロギーからは抜け出せない。

われわれのイデオロギー的な夢の力を打破する唯一の方法は、この夢のなかにたちあらわれるわれわれの欲望の〈現実界〉を直視することである。(p77)

つまり、イデオロギー批判は、社会的現実という夢の中に現れているはずの欲望の〈現実界〉を摘出しなければならないのだ。ラカン-ジジェクはこの欲望の〈現実界〉を剰余享楽(surplus enjoyment, plus-de-jouir)、それが具現化されたものを対象aと呼ぶ。ところで、マルクス主義においてイデオロギーとは、特殊的・具体的・歴史的なものが普遍化されてしまう虚偽意識(速すぎる普遍化)を指す。だが、ラカン-ジジェクにおいてそれは、速すぎる歴史化である。ジジェクマルクス主義イデオロギー批判に加える重要な改正が現れるのは、この部分である。速すぎる普遍化に対する批判では、資本主義的イデオロギーは消えないのである。例えば、超通俗的マルクス主義では、資本主義的生産様式は普遍的なものではなく早晩行き詰まるものだ、そしてその行き詰まりを打破する社会関係こそが社会主義だ、ということになる。だが、資本主義は行き詰って崩落するどころか、その行き詰まりを打破するためにむしろあらたに拡大再生産を続けようとする。すなわち、資本主義という概念にはこの内在的な限界が包含されているのであり、限界こそがそれを絶えず発展させていくのだ。この過剰さ、自らの内的な限界を露わにすることでむしろ新たな革新と発展を得る過剰さ、自らを放棄するかに見える地点においていっそう生き延びる過剰さ、これこそがラカン-ジジェクの言う剰余享楽なのだ。
したがって先ほどの夢/reality/Realの議論に絡めて言えば、イデオロギー批判は、社会的現実に固有の、剰余享楽の具現化である対象aを発見することに向かわねばならない。イデオロギーは社会的現実における剰余享楽/対象aを隠蔽するように機能しているのだ。言い換えれば、対象aの周囲に社会的現実が象徴化されて構造として現れているのである。象徴化によってはこの対象aは捉えきれない、というより対象aは象徴化に抗して持続しつづける象徴界に開いた穴である。対象aはそのままでは人々にとっては意味不明な、根拠を持たないトラウマ的な出来事でしかない。しかし、そのトラウマ的な出来事が反復されることで、現実界対象aが象徴化される、つまり「その出来事が象徴のネットワークの中に自分の場所を見出す」のである(ヘーゲル歴史哲学におけるカエサルとその後の皇帝支配)。それゆえ社会的現実という象徴界に開いた穴をこそ、批判は見付け出さねばならない。だが、その象徴化は、対象aの象徴化はいかにして行われるというのか。
ここでさらに、ジジェク分析哲学における固有名の記述論と反記述論の論争に触れ、クリプキの失敗した議論から剰余享楽の発生のメカニズムを突き止めようとする。クリプキは固有名が記述の束に還元できないことを説得的に示したが、同時に一つの神話をも想定した。それは固有名の最初の命名儀式の神秘化である。固有名を記述に置き換えようとすれば、必ずなにかそれ以上のものを付け加えねばならないような不足感にさいなまれる。こうした固有名の過剰な同一性を示すために、クリプキらは過去に行われた最初の命名儀式から途切れることなく続くコミュニケーションを想定したのである。だが連綿と続くコミュニケーションを想定することも、あるいは現在から最初の命名儀式までそのつながりを辿ることができるとする想定も、全く現実味がなく不可能に近い。そこでジジェクは、こうしたクリプキの議論の失敗を反転させて、いかに固有名に剰余を持つ同一性が発生するのかを理解する。クリプキらが見落としているのは「いかなる反事実的状況にあっても、つまりその記述的特徴がすべて変化しても、ある対象の同一性を保証するものは、名指しそのものの遡及的効果だということ」なのだ。もちろん固有名の剰余、いかなる可能世界でも変わらず同一であるその剰余とは、対象aにほかならないのだが、重要なことは、剰余が固有名の実定的な本質なのではなく、コミュニケーション(名指し)が固有名に剰余を後から与えるがゆえにそれは根本的に偶然的だということである。

したがって「固定指示子」が目指すのは、不可能-かつ-現実的な核であり、「対象の中にあって対象以上の」ものであり、意味作用の機能によって生み出されたこの剰余である。重要な点は、名指しの根本的偶然性と、ある対象がその同一性を獲得することを可能たらしめる「固定指示子」の出現の論理との、繋がりである。名指しの根本的偶然性は、〈現実界〉と、その象徴化の諸様態との間の、還元不可能なギャップを含意している。ある歴史的状況は、いろいろな形で象徴化され得る。〈現実界〉そのものには象徴化の必然的様態は含まれていないのである。(p153)

それゆえに、あるイデオロギーの本質を探ってみたとしても、つまりいかなる可能世界においても同一であり続けるような本質を探ってみたとしても、そのようなものは存在しない。では、どのようにして〈現実界〉は象徴化されるというのか。それは、ジジェクによれば、純粋なシニフィアンシニフィエなきシニフィアンへの指示に依存することで可能になる。例えば、民主主義を定義する唯一の方法は「民主主義には、自らを「民主主義的」と規定するすべての運動・組織が含まれる」と述べることだろう。すなわち、あるイデオロギーの同定、〈現実界〉の象徴化は、自己言及的に自らを定義付けるシニフィアンによって可能になるのである。そうしたシニフィアンは、その具体的な内容(シニフィエ)によって定義されているのではなく、ただ他のシニフィアンとの差異によってのみ定義されるようなもの、「純粋な差異」以外の何物でもない。しかし、イデオロギーはこの「自己言及的でトートロジカルで遂行的な機能」を持ったシニフィアンによって、構造化された意味のネットワークの一部となりえるのである。

したがって、本来の「イデオロギー的な」次元は、ある種の「パースペクティブの誤り」の効果である。〈意味〉の領域内で純粋なシニフィアンの媒介を代表する要素、すなわち〈意味〉の只中でシニフィアンの無-意味を爆発させる要素は、〈意味〉極限的飽和点として、つまり他のすべての点に「意味をあたえ」、それによって(イデオロギー的な)意味の領域を全体化する点として捉えられる。〔…〕
われわれはこの「パースペクティヴの誤り」をイデオロギー的歪像(ideological anamorphosis) と呼ぶことができよう。〔…〕イデオロギー的構築物を支えている要素、この「ファルス的」な、勃起した、「意味」の「保証人」を〔…〕しかるべき位置から(もっと正確に言えば政治的な意味で左の位置)から見れば、その中に、欠如の具現化が見えてくる。すなわち、イデオロギー的な意味の真ん中で、無-意味の亀裂がぽっかり口を開けているのが、見えてくるだろう。(p157)

ジジェク自身の要約によれば、イデオロギー批判には互いに相補的な二つの手続きがある。第一は、イデオロギー的領域の読解である。それはイデオロギーが、いかにしてある「シニフィエなきシニフィアン」によってつなぎ止められているかを明らかにするという脱構築的作業だ(ポスト構造主義な重層的決定論)。第二は、イデオロギーの享楽の核を抽出し、それがいかにして社会的「空想の中に構造化されたイデオロギー的享楽を包含し、操作し、生産するかを分節表現する」ことを目標にする。例えばユダヤ人のイメージは、汚らしい、官能的、誘惑的という下流のイメージと、知的で性的不能だという上流のイメージがまとわりついている。批判の第一段階は、この種の多種多様なイメージを読解し、そこに経済的対立や政治的対立などの社会的敵対性が示されていることを明らかにすることである。だが、それだけではなぜユダヤ人のイメージが人々の欲望を捉えるのかを説明するには不十分である。そこで、今度は、人々の享楽を構成する社会的空想の中に、いかにして「ユダヤ人」が入り込むのかについて分析しなければならない。社会的空想、すなわちイデオロギーは、シニフィエなきシニフィアンによって支えられた歪像である。それゆえ、イデオロギー批判の第二段階は、ただこの社会的空想(ユダヤ人)の背後には何もないこと、ただそれは無を隠蔽しているにすぎないということを「経験」させなければならないのだ。
こうした議論から明らかになるのは、社会的空想(ユダヤ人)は、社会的敵対性を隠蔽するための保護膜にすぎないということである。逆に言えば、「空想とは、イデオロギーがそれ自身の失敗をあらかじめ計算に入れるための手段である」。イデオロギー的空想は、社会的敵対性によって社会が破壊されていることを埋め合わせることで、同一的な社会領域を保とうとするのである。それゆえ、批判は、イデオロギー的空想が社会的敵対性の原因として断罪するあるシニフィアンユダヤ人)を、それがむしろ社会の失敗、社会の敵対性の具現化に過ぎないのだということを示さなければならない。

あるイデオロギー的構築物の中から、自分の中にそれ自身の不可能性を表象しているような要素を探しだすことである。(p199)

こうすることで、社会的空想が自らの失敗の原因として排除しようとする当の要素と、社会そのものを同一化させることができる。それをジジェクは、ラカンのテーゼを引きながら「空想を生き抜くこと」であると呼ぶが、つまりそれは、イデオロギーが排除し破壊しようとする、社会的敵対性が刻み込まれたシニフィアンこそが、社会的現実性を成立させている真理であるということを明らかにすることなのだ*2

*1:そしてジジェクに対してなぜかこのように一言で言おうとする人が多いのだが、おそらくそれは彼の議論を見失ってしまったことを告白しているにすぎないのではないか。

*2:ジジェクラクラウ/ムフの議論を下敷きにしているのでそれも読んでみたい。あと、時間論についても要検討の部分が多数