'10読書日記35冊目 『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』G.A.コーエン

あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか (こぶしフォーラム)

あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか (こぶしフォーラム)

  • 作者: ジェラルド・アランコーエン,Gerald Allan Cohen,渡辺雅男,佐山圭司
  • 出版社/メーカー: こぶし書房
  • 発売日: 2006/10/01
  • メディア: 単行本
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401p
総計9606p
筆者のジェラルド・コーエンは、マルクス主義の根本的な部分、唯物史観がもはや成り立たなくなっていることを理由にして、規範理論への回帰を正当化する。プロレタリアートが解体し、生産様式の飛躍的な進歩も停滞し、なにより環境問題が顕在化することで、マルクスの議論しえなかった(とされる)平等が、規範的に問われる必要が出てくるというのだ(この論点は訳者である渡辺雅男さんの解説によれば、マルクスの不当な誤読、ということになるし、よくあるありきたりなマルクス終わった説の蒸し返しでは、とも思わなくもない)。

英米の分析系の政治哲学のひとらは、やはり社会-経済-資本主義の問題を、というより資本主義の強靭さをどうにもちゃんと論じていないのではないか、という印象も今回もやはり拭い取れなかった。コーエンが分析しているのは、いかにマルクス「史観」が「主義」が駄目なのか、ということであり、『資本論』における資本主義分析が彼の政治哲学に組み入れられているのかは疑問であり、どのあたりが「分析」的マルクス主義なのかはよく分からなかった(もしかしたら他の著作ではそういう部分が展開されているのかもしれないが)。

分析哲学っぽさが現れるのは後半、「あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか」という問い、行為と信条の整合性にまつわる問いを論じる部分である。そこでは、ロールズネーゲルノージックらを参照・反照しながら、不平等な社会=格差を正当化できるか否かについて議論される。ロールズは、格差原理(格差は、そこにおいてもっとも悪条件にある人らが、不平等が無い社会における状況よりも、よりよい状況にある限り、正当化される)が全うされている限り、不平等を容認する。しかし、ロールズにおいては、正義-平等が、制度・構造と個人の行為に区別されて考えられており、前者のほうの正義のルールしか見ていない。しかし、個人の行為が平等へと向けられていない限り、社会全体としては不平等になりえるのではないか、とコーエンは提起するのである。

そうなれば、焦眉とならねばならないのは、行為と信条の整合性である。ある意味で、ロールズの格差原理と正義の原理は、個人が制度上のルール(福祉国家において課税を支払うこと)に従うことだけを促し、個人の行為の平等主義性は問われない。ここをコーエンは付くのだが、それは個人的なことは政治的でもあるというフェミニズム的な批判の形式である。しかし、この暴露的な批判は、同時に新たな問いとして、個人の信条と行為の整合性への問いをも切り開いてしまうのである。

この問いに対して、コーエンは議論を整理しただけで、結論は出してはいない。その議論は実に「分析」的なものであり、やはり僕としては、なんとなく乗っかっていきにくい感じをしたのであったが。けれど、哲学は、もはやこうあるしかないのかなあ・・・。


[追記]5.25
この本は、院ゼミで読む課題であった。議論されたことや、そのなかで感じたことをメモ程度に。

やはりコーエンのスタンスが疑問視された。この本を読む限り、コーエンは「マルクス主義者を止めた」宣言をしているのであり、どのあたりがマルキストなのかははっきりしない。先生などはむしろ分析的クリスチャンなのではないか、とさえ。アナリティカル・マルキシズム研究の同期は、コーエンが「分析的マルクス主義者」と呼ばれた文脈が知りたいと言っていた。つまり、自分から言い出したのか、それともアメリカという国で「平等」やegalitarianismを主張することで「マルクス主義者」とレッテル貼りされたのか、ということである。

また、議論の的になったのは、第六講の平等のところ。コーエンは(1)プロレタリアートがもはや階級として存在しない(2)地球の資源は枯渇し、マルクスが言う生産様式の発展は望めない、という二点を挙げ、唯物史観を放棄する。これはおそらく正しい。また、マルクス自身が規範としての平等を明確に定位していなかったことが、ここにおいて問題化される、というのも納得である。そもそもマルクスの前提では、自己労働の産物への権利と、利得と負担の平等原理の折り合いは論理整合的ではない。後者は、つまり働くことのできない人々にまで拡大される平等の概念を含意するものだからだ。

この点に関して、先生などは、プロレタリアートが存在しなくなったというより、後期近代では、誰もが資本家でありかつ労働者になったのではないか、つまり、誰もが国債をもち株主になりという意味で、役割が固定的ではなくなったということも言えるのではないか、とおっしゃっていた。僕の見方はちょっと違っていて、階級闘争が労使交渉へと馴致されてしまったということ(フォード主義的労使関係)も言えるのではないかと思う。

コーエンの曖昧で錯綜した議論はおそらく、資本主義の発展と自由主義の趨勢のもと、マルクス主義の存在理由が不明瞭になったことに起因する。現代において、労働者はかつてほど疎外されてはおらず、企業と一体であり、市民権も得ており、生活の質も向上した。プロレタリア運動や革命が(現実的に)不可能になったということは、社会がより自由になったことの裏返しでもあるのだ。しかし、一方、資本主義の運動はグローバルな次元においても、そして現代では先進国においても、格差を生み出していることは間違いがない。経済成長が続く局面では格差は不可視化されているが、退潮になれば顕在化する。コーエンは、こうした状況において、戸惑っているのだ。

つまり、マルクス主義的な労働者の運動、革命運動は、もはや正当性を失っている。ロールズ流の制度にのみ注目した正義の原理は、実際に社会を平等化すること、格差を解消することには至らない。では、実質的に社会を平等にするには、どのように「個人」が行動すればいいのか、翻って、どうして抵抗運動が可能なのか、ということである。この答えとして、コーエンが提示するのが、平等のエートスなる、ある意味でクリスチャン的な転向だったのではないだろうか。


話は、ポパー反証可能性論理実証主義大森荘蔵にまで及んだが、あいにく不勉強で……