芥川龍之介『猿』

芥川龍之介の短編小説「猿」を高2の集団授業で読んだ。2006年の岡山大の入試問題。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/139_15128.html
この小説は、たかだか5000字強のごく短いものなのだが、その短さに反して、人間の根本的な〈倫理〉の現れうる場面と、人間が人間以下にあるいは「猿」以下に扱われうるその極限を豊かに暗示する。

舞台は遠洋航海を終えて横須賀に入港した軍艦。あるとき突然、すべての隊員の所持品検査が実施される。隊員や上官の持ち物が盗まれたのだ。所持品検査の結果、奈良島という人物の持ち物から盗品が発見される。しかし、奈良島は船内に見当たらない。軍艦内で盗難が発生した場合、盗難品が発見されたとしても犯人が見つからないときがままある。犯人が自殺しようとどこかへ隠れているのである。隊員たちは奈良島を探すために船内を捜索する。しかし、その捜索は遠洋航海という退屈な日々を紛らわす一時の気晴らしめいたものとなる。「私」や同僚の隊員たちには、かつてある国に渡航したときに隊員が連れ込んだ「猿」が上官の時計を持ったなりどこかへ消えてしまったときの大捕物のようにさえ感じられる。「私」はついに、奈良島がある部屋に入っていくところを見つけ、彼の自殺を食い止めることに成功する……。

この小説を貫く基本線は、三つある。猿・人間・軍隊である。「私」を含めた海兵隊員は奈良島が自殺しないように彼を見つけ出すことに面白味を感じている。「私」たちは彼を猿程度のものと同一視し、その捜索に奇矯を見出すのである。退屈な遠洋航海の日々の一時の気晴らし以上のものが、ここにはある。というのも、「私」にとって奈良島の自殺の可能性は、微塵も重たさをもって受け取られてはいないからである。そのような心理を可能にするものこそ、軍艦-軍隊という規律訓練の場である。「集合」「整列」「解散」という命令と規律のもとに常に動き続けるからこそ「私」らは上官の「捜索」という非凡な命令に愉悦を覚えるのであり、軍隊規律に従順な身体である「私」らには、盗難犯である奈良島の生存などは猿程度のものとしてしか認識されないのだ。
盗難の犯人が捕まれば「浦賀の海軍監獄」へ送られて、「弾丸運び」という刑罰を与えられる。それは「八尺ほどの距離をおいた台から台へ、五貫目ばかりの鉄の丸を、繰り返し繰り返し、置き換えさせる」だけの刑罰である。ドストエフスキー『死人の家』が引かれ、そうした無意味な刑罰が囚人を自殺に至らしめるということがほのめかされる。盗難犯である奈良島にとって、自ら自殺するか、あるいは捕まって自殺せざるをえない状況に無理やり追い込まれるか、どちらかしかないし、どちらにしても行き着く先は自殺である。しかし、この小説は、そうした非人間的な刑罰をヒューマニズムの見地から弾劾するというようなありきたりの道徳物語なのではない。確かに、軍隊における生活と海軍監獄における「弾丸運び」は、プロレタリアートの隠喩でもあるだろう。しかしこの小説はプロレタリアートの悲惨さを訴えかけるだけではなく、むしろそうした主体の構成と、構成の失敗の必然性、その倫理的むごたらしさを狙い打つのである。
操作を続けるうちに、ついに「私」は奈良島を見つける。「私」は奈良島の無防備な姿を前に「異常な興奮」、「体中の血が躍るような、何とも云いようのない、愉快な興奮」、「銃を手にして、待っていた漁師が、獲物の来るのを見た時のような心持ち」を感じる。しかし、彼を捕まえようとしたとき、「私」に大きな転換が訪れる。

 奈良島は私の手をふり離すでもなく、上半身を積入口から出したまま、静かに、私の顔を見上げました。「静かに」と云ったのでは、云い足りません。ある丈の力を出しきって、しかも静かでなければならない「静かに」です。余裕のない、せっぱつまった、云わば半ば吹き折られた帆桁が、風のすぎた後で、僅かに残っている力をたよりに、元の位置に返ろうとする、あの止むを得ない「静かに」です。私は、無意識ながら予期していた抵抗がなかったので、ある不満に似た感情を抱きながら、しかもその為に、一層、いらいらした腹立たしさを感じながら、黙って、その「静かに」もたげた顔を見下しました。
 私は、あんな顔を、二度と見た事はありません。悪魔でも、一目見たら、泣くかと思うような顔なのです。こう云っても、実際、それを見ないあなたには、とても、想像がつきますまい。私は、あなたに、あの涙ぐんでいる眼を、お話しする事は、出来るつもりです。あの急に不随意筋に変ったような口角の筋肉の痙攣も、あるいは、察して頂く事が出来るかも知れません。それから、あの汗ばんだ、色の悪い顔も、それだけなら、容易に、説明が出来ましょう。が、それらのすべてから来る、恐しい表情は、どんな小説家も、書く事は出来ません。私は、小説をお書きになるあなたの前でも、安心して、これだけの事は、云いきれます。私はその表情が、私の心にある何物かを、稲妻のように、叩き壊したのを感じました。それ程、この信号兵の顔が、私に、強いショックを与えたのです。

「私」は、自殺を決意して積入口に入ろうとする奈良島の顔を見たのだ。顔は、徹底して「静か」である。「ある丈の力を出しきっ」た静かさを顔は湛えている。しかし、その顔は「どんな小説家も、書くことは出来」ないくらい「恐しい」ものである。しかし、いったいこの顔、いかなる表象をも拒む顔のいったいどこが「恐しい」というのか。そしてその顔が、私の心のいったい何を「稲妻のように、叩き壊した」というのか。
端的に言えば、奈良島の顔に現前していたのは、生の純粋衝動である。それは突風に煽られて「半ば吹き折られた帆桁」に「僅かに残っている力」、その力そのものの現前である。風が止んだ後に惰性で元へ戻ろうとする「静かな」力。それが顔に現前しているのである。顔を支配しているのは、ただ能動的な意志に逆らってでも微動する「不随意筋」、「筋肉の痙攣」だけなのだ。「私」は奈良島の生そのものに、むき出しの生に、直面したのである。
さらに、「恐ろしい」むき出しの生の現前は、「私」の規律訓育された主体を、あるいは呼びかけられ構成された主体の地位を破壊する。規律権力によって呼びかけられた主体は、その呼びかけにさえも逆らってぴくぴくと痙攣する顔に直面して、まったきまでに破壊されるのだ。もはや「私」は内面化された規律の声と自分の声を一致させることはできない。規律権力によって主体化された「私」の軍隊-上官的な物言い「貴様」は、しかしそのまま「私」へと差し向けられる。「私」は、生の直裁的な現前と、しかし構造化され内面化された主体の間に引き裂かれる。

「貴様は何をしようとしているのだ。」
 私は、機械的にこう云いました。すると、その「貴様」が、気のせいか、私自身を指している様に、聞えるのです。「貴様は何をしようとしているのだ。」――こう訊ねられたら、私は何と答える事が出来るのでしょう。「己は、この男を罪人にしようとしているのだ。」誰が安んじて、そう答えられます。誰が、この顔を見てそんな真似が出来ます。こう書くと、長い間の事のようですが、実際は、ほとんど、一刹那の中に、こんな自責が、私の心に閃きました。丁度、その時です。「面目ございません」――こう云う語が、かすかながら鋭く、私の耳にはいったのは。
 あなたなら、私自身の心が、私に云ったように聞えたとでも、形容なさるのでしょう。私は、ただ、その語が、針を打ったように、私の神経へひびくのを感じました。まったく、その時の私の心もちは、奈良島と一緒に「面目ございません」と云いながら、私たちより大きい、何物かの前に首がさげたかったのです。私は、いつか、奈良島の肩をおさえていた手をはなして、私自身が捕えられた犯人のように、ぼんやり石炭庫の前に立っていました。

「貴様は何をしようとしているのだ」は、軍隊の規律と同一であるはずの「私」の声ではなくなり、「私たちより大きい、何物か」の声となる。「貴様は何をしようとしているのだ」は、言わば「汝殺すなかれ」なのだ。「私」に向けて発せられたその声は、奈良島を猿のように捕獲し軍隊の罰則にかけようとする「私」への〈倫理〉の命令となるのだ。それは、奈良島の顔に現前したむき出しの生の臆面もない倫理性の命令である。規律権力による呼びかけから、生そのものによって力づくで引き離された主体は、いまや全くの空虚な存在となり「捕らえられた犯人のように」呆然と立ち尽くすだけである。
ここで「私」と「奈良島」の存在は、どちらも主体化に失敗し引き裂かれて空虚なだけの、生そのものとして描かれている。もちろん「私」の主体性にひびが入ったとしても「私」は奈良島と違って安全な場所にいる。奈良島こそは、根底的に主体化に失敗して排除され抑圧された存在には違いない。軍隊の規律に従わず盗難を犯した、ということではない。軍隊の規律権力は、それに従うことのできない失敗した主体化をも作りだして、むしろそれを反作用にして他の成員に対するいっそうの主体化を促すのだ、例えば盗難犯を捜索しろ!捕まえろ!という具合に。主体化に失敗した身体は、捕まって矯正のチャンス――「弾丸運び」という無益な労働に奉仕するチャンス――が与えられるかもしれない。しかし、その矯正にも失敗した身体はどうなってしまうか。自らの主体を自分で統治するために残された道は、捕まるにせよ捕まらないにせよ、自殺だけである。砲術長は、かつて、猿に時計を取られて絶食の刑を言い渡した後、みずから猿に同情して刑を早期に切り上げる。しかし、この小説の最後が圧倒的な絶望を持って言うように――「猿は刑罰を許されても、人間は許されませんから」――、主体化に失敗した人間は猿以下のものとして、ただのむき出しの生としてのみ存在することを許されるのだ。規律訓練によって主体化することのできなかった身体、人間になることのできなかった身体は、人間でさえもはやないのである。だが、一瞬だけ奈良島の顔に現れたむき出しの生は、その現前は、他の規律によって構成された主体を破壊するだけの〈倫理〉を持つ。そのことが果たして一抹の希望になりえるのか、僕には全くわからないが、ともかくこれだけのことを「猿」という短い小説は、詳らかにして見せている。