'14読書日記49冊目 『うるわしき日々』小島信夫

うるわしき日々 (講談社文芸文庫)

うるわしき日々 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族』の続編――しかも30年後の。という謳い文句で読売新聞に連載されていた小説。明らかに小島信夫を思わせる老作家が、アルコール中毒で入院している息子の世話のために奮闘し、妻の健忘症と向かい合うという、老いと家族をめぐる小説である。『抱擁家族』が、崩壊していくような予感を漂わせる家族をテーマにしていたとすれば、『うるわしき日々』は崩壊がとめどなく進みながらも、崩壊しつつあるなかの均衡とでも言うような絶妙なバランスの内に家族があり、しかしそれはもはや家族として一般的に美化されてイメージされるものからはかけ離れており、かけ離れているがゆえに説得力を持つというような、そのようなことが描かれている。これらは小説の実質であるが、他方で形式としては私小説に分類されるであろう『うるわしき日々』は、しかし永井均的な意味での〈私〉小説でもある。つまり、小説のなかで私小説に典型的な小説内の主人公的視点(「私」)=現実における書き手という等式が、ここでは破壊されているのである。この破壊は、2つの破壊である。つまり、「私」と書き手の一致の破壊、そして現実と虚構の区別の破壊。私小説が成り立つためには、現実と虚構(作品)が区別されるという前提があり、その前提のもとで作品内の「私」と書き手が一致するという仕組みが取られなければならない。私小説において、書き手の生は一つの物語(narrative)をなしている。しかし、小島信夫の小説には、書き手が、明らかに書き手と同一視されるべく叙述された主人公の言動を懐疑するような語りがいくども挿入され、書き手と私の一致は揺るがされる。この動揺は、単に小説が普通の私小説であることを否定するだけでなく、根本的な部分で、私という主体の同一性にまで及ぶたぐいのものである。書き手の主人公への自己省察的な懐疑は、書かれた私と、書いている私、さらには書いている私を書いている私、という形で差異化を連ねていく。さらに、こうしたメタ構造を小説に導入することによって、現実と虚構の区別さえも揺るがされることになる。というのも、私小説は書き手の現実の体験を元にした限りなく現実に近い虚構とみなされることで成り立っているが、書き手の主人公への自己省察を導入することによって、こうした現実に漸近しながらも虚構性を保っていた構造がなし崩しにされ、もはや虚構と現実の区別さえ失われてしまうのである。私小説は、小島信夫によってラディカルに現実化され、同時に現実はラディカルな形で虚構化される。物語という始まりと終わり、起承転結を持つ構造は、現実と見分けがつかなくなることで、物語であることをやめる。生は一つのナラティブであるということは、実はナラティブというものが持つ起承転結性によって生を見るという見方を強いるものでありながらそれを隠蔽しているのだが、小島信夫の小説は、現実と虚構の区別を破壊し、私の同一性をゆるがせにする結果、生がまったく物語性を持たない、つまり始まりも終わりも、ストーリーの起伏も持たないということを暴露するのである。語り口のユーモアと語られる内容の悲劇性の微妙なバランスもあいまって、ぐいぐいと読み進めていくことができるのだが、その間終始、絶妙な違和感――書き手にも、主人公の老作家にも、誰にも共感できず、共感というものがそもそも成り立つのか、あるいは共感というものを本源的に信じてはいけないのではないかというような懐疑さえ持たざるをえない――にぞくぞくするようであった。極めつけは、やはり小説の終わり――小説が終わるからといって生が終わるわけではないし、生が終わるからといって小説が終わるわけでもないというごくごくアタリマエのことが表現された箇所――であろう。主人公はある理由から泣くのだが、それは主人公=書き手の内面の心情の発露を捉えたものである、といういかにも私小説的な解釈を拒絶するような終わり方になっている。主人公がそこで泣くであろうということ、これは年若い友人(保坂和志を思わせる)からの手紙にすでに書かれていたことであり、書き手はそれを小説の中に転用したのだろう、という愉快な事実が明らかになるからである。もうめちゃくちゃである。
ところで、小島信夫の書く主人公の息子は、障害を持って生まれ、年老いてアルコール中毒になって病院に入れられた。この不幸な顛末が彼の小説には度々登場するのだが、このことと、同じく戦後日本を代表する作家、大江健三郎私小説性を比較することもまた興味深いテーマをなすだろう。大江の場合、息子の光が極めて効果的に、純粋無垢な存在として小説の中に位置を占めていることが多い。なんと対照的な図式なのだろうと、一見思わされはしないだろうか。