'12読書日記19冊目 『社会学の根本問題』ゲオルク・ジンメル

社会学の根本問題―個人と社会 (岩波文庫 青 644-2)

社会学の根本問題―個人と社会 (岩波文庫 青 644-2)

143p
総計5249p
どうも、このタイトルが悪い。いかにも教科書的で硬そうなタイトルである。しかし、とにかく内容が面白い。第三章「社交」は感動的でさえある。第四章も啓蒙主義からロマン主義社会主義への思想史を明快に論じており、後のカッシーラーやテイラー、バーリンのひな形がそこに見出されるようである*1。これほど面白いのに岩波文庫で絶版なのは、非常に腹立たしい。おそらくこの真面目くさったタイトルのせいで売れないのだろう。残念極まりない。

ジンメルによれば、社会の最も根本的な性格は相互作用(Wechselwirkung)である。

それ[社会]はそもそも機能的な何か、すなわち、諸個人が行為したり被ったりするような何かであり、したがって、その根本性格は社会と言うよりも、むしろ社会化と言うべきである。(Sie ist also eigentlich etwas Funktionelles, etwas, was die Individuen tun und leiden, und ihrem Grundcharakter nach sollte man nicht von Gesellschaft, sondern von Vergesellschaftung sprechen.)

社会化の内容は、ある目的や衝動、関心など様々なものが考えられるが、それに形式を与えているものが相互作用なのだ。この基本的な図式に従ってジンメルは、一般/純粋社会学という区分を立てる。一般社会学が社会化の内容(目的・関心etc)を扱う(第二章では「大衆」が例題的に分析される)のに対して、純粋社会学は社会化の形式である相互作用そのものを扱う(第三章)。
ジンメルは一般的に「形式の社会学者」と「生の哲学者」の2つの顔を持っているとされるが、形式と生は切り離されうるようなものではない。両者には密接な関係が、弁証法的な関係がある。人間は当初、生存欲求にのみ突き動かされて世界に対峙する。そして、世界から生存に必要な糧を受け取り、知性や意志、感情といった精神の作用によってその糧を加工する。つまり、自然に対して労働や技術を通して働きかけ、自然を自分の生命のために用いようとする。そこで問題となるのは、自然に対して働きかける仕方、すなわち形式である。人間精神が形式を発見すると、その形式自体が生存欲求とは無関係に魅力的なものとして人間に迫ってくる。このように形式の発見によって、人間の生はただ生存欲求に突き動かされる状態から、形式そのものを享受する状態へと解放されるようになる。例えば、科学は当初は人間の生存に関係するものだったが、いまや科学的認識そのものが独自の価値を持つ。あるいは芸術は、あらゆる実際の生存的な関心から離れたところに価値を持つ。さらに、法でさえ、そもそもは諸個人が生存を維持するための契約だったものが、やがては法が自己目的化し、「法に従わなければならないのは、法が法であるからだ」というような関係が生じてくることになる。つまり、この段階に至って、生は生存という内容に規定される状態、生存という内容によって形式が発見されるという状態から、形式が生を規定する状態、形式こそが生であるような状態への転回が成し遂げられているのだ。
ジンメルは、形式が手段ではなくそれ自体で目的となるような最たるものを、芸術と遊戯において見出す。そして第三章において、諸個人の相互作用という社会化の純粋な形式を、つまり社会化における芸術と遊戯を、「社交(Geselligkeit)」だと定義するのである。諸個人が社会を形成するときには、たしかに何らかの目的や衝動が働いている。しかし、その場合でさえ、社会形成そのものの価値を楽しむような感情が諸個人の間に生じている。社会形成=社会化そのものを手段としてではなく目的として把捉するものこそ、社交において明らかになる事態なのだ。社交は「すべての内容を単なる形式の純粋な戯れに解消」するものでなくてはならず、そこに現実生活のリアリティが持ち込まれてしまえば、芸術や遊戯がそうでなくなってしまうのと同様に、社交も破壊されてしまう。相互行為の形式そのものが目的である社交という理想は(あるいは理念は)、それゆえ、閾値を厳格に持たねばならない。例えば、諸個人の相互行為がある目的性においてのみ捉えられるのならば、それはもはや社交ではない。また、社交の場において、参加者が個人の富や地位、性格や個人的感情を全面的に押し出すのならば、その場には現実的な生活のリアリティが混じり込むことになる。
こうした閾値による社交の定義が消極的なものであるとすれば、その積極的な定義はどうか。ジンメルはカントの『法論』にならって、二つの積極的なテーゼを立てる。

「各人は、他のすべての人間の社交本能の満足と一致するような社交本能の満足を持つべきである。」
「各人は、自分自身が受け取る社交的価値(喜び、きばらし、活き活きとした気分)の最大量と一致するような価値の最大量を他人に与えるべきである。」

社交の積極的原理によって明らかになるのは、社交において参加者が平等に取り扱われるだけでなく、そこではあらゆる参加者が他の参加者へと配慮し社交の楽しみを享受しなければならないということである。それは全く民主主義的な原理である。社交の参加者は個人の実存や地位を捨て、人間としてのみその場に現れる。人間の社交的存在様態*2は、「様々な内容や力、可能性からなる未だ無形の複合体」であり、「さしあたって名付けようのない根源的な力」なのである。つまり、社交は人間を潜勢力あるいは可能態としての状態に引き戻すのである。社交は社会的な遊戯であり、「それによって実際に「社会」が「遊戯」になる」のだ。
注意しておかねばならないが、ジンメルの社交論は疎外論では決して無い。ジンメルは社交を単に理想化し、現実の相互行為が目的へと回収されてしまった堕落態であるなどと論じているわけではない。それは、例えば、社会以前の自然状態に現れるようなものではないし、封建的な社会において現れるものでもない。社交が理想的すぎるように見えるのは、現実が歪んでいる証左でもある。*3

私たちは純粋に「人間として」社交の中へ入っていく、つまり、一切の負担や煩悶、不満など、それによって現実の生活において人間の純粋な姿が歪められるところのものを捨て去って社交の中へ入っていくのだと考えるのだとすれば、それは現代の生活が客観的な内容や現実的必要というものを過度に背負わされているからだ。

つまり、社交=自然状態=理想状態が現実の生活によって歪められたからそこへ戻らねばならないという疎外論ではなく、ジンメルはむしろ「現実の生活が客観的な内容や現実的必要というものを過度に背負わされている」という批判の準拠として、社交という理想を社会化の最も純粋な形式として取り出すのである。
ジンメルの社交概念は、ハーバーマスアレントとの対比でいっそうその特異性を増し、いっそうそれらに比して魅力的に映る。ハーバーマスは公共性の議論に政治批判という目的を見出したが、ジンメルの社交における会話はそうした議論さえ議論そのものを楽しむという形式を純化したものとして取り上げられる。また、アレントにおいては公共性は個人の現れの場であり多様性が担保される場だったが、そこではジンメルと同様に経済的な話題は排除されていた。しかし、アレントの公共性が経済に対する批判的機能を(少なく見積もっても明示的には)持たないのに対して、ジンメルの社交は社交が一切の目的概念から解放されているという点で、全くそれ自体に価値が宿るという点で、目的合理的行為を貫徹させる資本と官僚制への批判の準拠点となりうる。ジンメルの社交がいまだ徹底的でない(とはいえそれは全くラディカルだが)のは、相互作用の抽象の限界を会話に設定しているところだろう。相互作用は会話に限定される必要はない。相互作用を極限まで抽象化し、無目的であるということそのものの政治的ポテンシャルを取り出したのはジャン=リュック・ナンシーである。「無為の共同体」では、人がただ何の理由もなく何をするでもなくただただそこに存在し、そこで共在し共有されているのは人が人であるという純粋性、人間の潜在的な潜勢力である。資本や権力は、そうした人間の潜勢力を凝固し目的合理的な方向性へと固定化するだけでなく、人間が普遍的に共有するはずの潜勢力を収奪する。「無為の共同体」は、その潜勢力を人間に対して取り戻すのだ。
しかし、ジンメルが特段に優れているところは社交概念を何らかの内容に固定化せず、その形式の持続性において捕らえなかったところだ。社交がなんらの目的を持たずその形式のみに価値を持つ状態であるとしても、諸個人の相互作用はある瞬間には社交的であるとしても、またある瞬間には目的へ向けて再-組織化するということがありえる。社交はある特定の関係の持続を、全く無化する概念なのだ。

社会の道徳的任務から見れば、社会のメンバーの結合や分離は、彼らの生命の全体によって規定された内的関係を正確に表現するものとなろうが、社交においては、結合や分離における自由も理由も、深い内容のある具体的な条件から解放される。一つの「社会」の中で多くの集団が形成され分裂する姿、社会の中で全く衝動や偶然によって対話が始まり、進み、気が抜け、終わっていく姿、これは結合の自由とも言うべき社会的理想の縮図である。

社交は、持続することが極めて難しい状態であるし、ジンメルはその持続を理想化するのでもない。社交は持続しなければならないわけではないのだ。もし社交の持続が目的になるのであれば、社交は社交ではなくなってしまうだろう。会話をしていると自然と無意識的に楽しさが生まれていくというのが社交の本質である。例えば、社交のためになされる社交、会話をつづけることを目的として設定してなされる会話について考えてみればいい。会話を続けるということのためにのみ会話を行うことがいかに虚しく楽しみの少ないものか。明示的に自己目的化した社交、すなわち例えば誰かリーダー格のメンバーが「会話を続けようとしなければならない!」などと言明した後になされる会話、これは「遊戯ではなく虚しい形式の悪戯」である。ジンメルは社交を、波が打ち寄せては引いていく光景に喩えている。

海を眺めていると心が静まるものだが、それは波が絶えず寄せては返すにもかかわらずというよりも、むしろ寄せては返すからこそである。波の往復運動の中に生命全体のダイナミックスが様式化され極めて単純に表現されている。この場合、あらゆる体験されたリアリティや個人の運命の重みから解放されながら、しかもその究極の意味が単なる海の姿に流れ込んでいるように思われる。

*1:もちろんジンメル以前に誰かが論じていた可能性はあるが

*2:ハイデガーに仮託してこう言うならば

*3:第二章の大衆の社会学的分析は一見ブルジョア的で鼻持ちならない風に読まれかねないが、次のような言明をまともに受け取った上でジンメルを読む必要がある。「私たちは、社会的水準の成立を次の価値方式で表現することができる、つまり、万人が共有するものは、最も貧しい所有者の所有物であるほかはない。」精確に言えば、この命題は反転させて読まれなければならない。最も貧しい物の所有物においてのみ万人は共通のものを見出すことができる、と。