『J.エドガー』


渋谷シネパレスでイーストウッド監督、レオナルド・ディカプリオ主演の最新作『J.エドガー』を見てきた。
初代FBI長官で八人の大統領に仕えたジョン・エドガー・フーヴァーの人生をディカプリオが演じる。もちろんディカプリオは相応に上手く(しかし彼も老けた)、母親役のジュディ・デンチも渋い演技を見せる。だが、映画を手放しで賞賛することはできない。晩年のエドガーの伝記口述のシーンを用いて、過去と現在を行き来しつつ映画は進むのだが、プロットが様々すぎるテーマを扱っているために焦点がぼやけた印象がある。FBIを創り上げた人物の功罪、クローゼット・ゲイの愛の物語、母親の支配と父の不在、道徳的保守主義とマッチョな正義感。伝記映画にしても、1920年代から30年代の記憶描写は豊かであるのに、第二次世界大戦の描写はすっぽり抜け落ちている。しかし、何事かを語らなければならないような切迫感につまされるのはなぜだろう。「男の社会」を描くことを真骨頂としていたイーストウッドが、陰のアメリカ史とでも言うべき自伝映画を撮ったからか。それとも、彼が描く「男」がついに「男」であることを捨てた(ように撮られた)からか。エドガーに"共感"することなどできない。それはイデオロギー的にも、感情的にもそうだ。なのに、なぜ駄作だと切り捨てられないのか。アメリカの保守的な道徳観を体現したはずの男の映画の中に、それを逸脱するような孤独を見るからか。

複雑なテーマの中から、あえて中心を挙げるとするなら、彼の保守的な道徳(正義)観とセクシャリティということになるだろう。エドガーは私生活では一回も結婚せず、その代わりに副長官クライド・トルソンと晩年まで公私を共にした。つまり彼の私生活にはホモセクシャルな陰があったのであり、映画はそのあたりをフィルムの半分以上を割いて丁寧に描いている。『ミルク』の脚本をつとめたダスティン・ランス・ブラックが今作を担当しているが、そのあたりの陰翳の付け方は流石と言える。
エドガーは、クローゼットゲイとして悲劇に生きた政治家ではなく、ある意味でハーヴェイ・ミルクと全く対照的である。ミルクがゲイの権利拡張を訴えた政治活動を展開しマイノリティの側に立つ正義を象徴していたとすれば、彼は保守的な反共産主義者であり、犯罪を撲滅することでアメリカに道徳的秩序を回復することを目指す。彼は目的のためなら手段を選ばず、法の境界外にあるような権限を有し(しかもそれは大統領をスキャンダルで脅迫して得たものだ)、盗聴やマスコミを使ったデマなどを用いて、"アカ"とみなした者らを次々に逮捕しようとする(晩年までずっとキング牧師を嫌悪していたことが描かれる)。アメリカをアナーキーに陥れるような共産主義者を見つけるためには、市民の思想を知らねばならず、市民ひとりひとりに番号を振り指紋を採取し、完全なデータベースを作り上げなければならない。1920年代当時は犯罪捜査といえども非科学的で、指紋採取さえ適切に行われてはいなかったが、エドガーは科学的知を導入することで、FBIをアメリカの正義と道徳の砦としようとしたのだ(フーコーの一連の議論がすぐに想起される)*1
エドガー・フーヴァーの道徳観は、「秩序」にこそあると言ってもいい。暴動を引き起こしかねない者であるなら、ギャングも共産主義者も同じだ。FBIはそのどちらに対しても徹底して戦わねばならず、それらを撲滅しなければならないとエドガーは言う。捜査員に対して厳しい規律が課せられ、政治家と捜査員の癒着を断ち切るために政治家のスキャンダルが収集される。捜査を科学的な知によって再編成し、組織を合理化していく末にあるのは、フーヴァーの強大な権力である。彼の権力欲はとどまることを知らず、自らをアメリカの道徳的秩序の維持者として明示していくようになる。
しかし映画は、そうした飽くなき権力欲が、そして捜査の徹底化によるアメリカの道徳的秩序の探求が、彼のセクシュアリティ(や疎外感)によってむしろ強化されていた可能性を暗示する。エドガーは、ハーヴェイ・ミルクのように自らの同性愛を肯定し、さらにそれを社会にも肯定させるよう働きかけることができるような人間ではなかった。母親とのシーンの多くで描かれているように、彼は母親の強烈な教育によって「強くなければならない」という規範を内面化している。それは第一には、父性を欠いたヨタヨタの父親を反面教師にして与えられる「父さんみたいに(軟弱に)なってはいけない」という強迫観念である。彼は捜査機関の長としてアメリカの秩序を司る「父」たることを要求される。しかし、その強迫観念は彼が持ち合わせた二つの社会的疎外感によって複雑化する。一つは同性愛者(あるいは女性嫌悪)というセクシュアリティであり、もう一つは吃音である。どちらも明らかになれば、アメリカの保守的な秩序世界の中ではのし上がっていくことができず(「父」となることはできない)、ひどい場合にはそこから排除・疎外される可能性のある特質である(現に青年期のエドガーと母親の会話の中に、幼い頃に女装癖を暴かれて自殺した小学生の級友の話題が出てくる)*2
道徳的秩序の中から排除されうる特質は、ミルクの場合と違って、巧妙に隠蔽され、さらに隠蔽するために権力を得なければならないという図式に転換されるのだ。FBIの中で強権を握りアメリカ的秩序の再建を夢想するエドガーは、同時にその秩序から爪弾きされないために権力を握らなければならない。私見だが、キング牧師に対して表明される強い憎しみは、黒人という社会的排除の対象となる特質をキング牧師が引き受けた上で民衆の支持を得ていることに対する強烈な嫉妬だったのではないか。エドガーは最期まで道徳的秩序から排除されることに怯えクローゼットを貫き、自らの伝記を虚飾に満ちたものとして語る。権力という虚像によって粉飾された実存的な不安は、クローゼットと自伝の脚色という二つによって象徴されている。
そうしたなかば精神分析的・心理主義的な見方を脇においても、やはり見所はエドガーの右腕であり恋人であった副長官との老年の関係性であろう。老いさらばえていくかつての敏腕権力者が、虚実の境を朦朧と歩んでいき、孤独の内に死んでいく。二人が抱き合ったり行為に及ぶことは一度も描かれない。殴り合いの喧嘩の末にトルソンが唇を強引に奪うシーンはあるが、その後には目立った性描写は無い。トルソンの愛が成就するのは、エドガーがベッド脇に倒れて死んでいる時である。醜く太った腹をむき出しにして息絶えたその身体にシーツをかぶせ、老体を重ね合わせるトルソンの表情は満ち足りたようでいて空虚である。静謐でいて豊かなシーンだった。エドガーがトルソンに向けて控えめに、そしてambiguousに繰り返すI need youという言葉が耳に残る。
おそらく『ミルク』と共に見られそして考えられねばならない『J.エドガー』は、イーストウッドでなければ撮れなかった映画であろう。エドガーが体現するマッチョイズムと不安は、イーストウッドが好んで撮ってきた男の孤独に通底している。それはガス・ヴァン・サントには撮れなかった「男の社会」であり、イーストウッド自身による「男の社会」のカリカチュアだ。思えば一貫して国家権力が押し付けようとするのとは違った形で「正義」を模索し続け、『ミリオンダラー・ベイビー』で"男の論理"を女性ボクサーに求めることの挫折を描き、『グラン・トリノ』で移民の少年に正義の一翼を担わせたイーストウッドが、『J.エドガー』を撮ることは当然だったのかもしれない。

*1:加えて言えば、指紋採取というデータベースを創り上げて、それによって個人を把握・特定し犯罪を予防しようとするエドガーが、晩年期に独白するのはアメリカの民主主義についてである。彼の中では生-権力的なものと民主主義が違和感なく結びつく。

*2:さらにネタバレになるが、彼が母親の死後、彼女のネックレスを首にかけ、さらに彼女のドレスまで来て姿見の前に立ち、泣き崩れるシーンは素晴らしい