ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム

友達のメイヤン(@nhokuto)の論文「ネット社会をサバイブするアイドル・プラットフォーム」(なんかもうちょっとタイトルどうにかならんかったんかw)を読んだ。3万字を超える大力作で、しかも冗長なところがなく理論的な緊張感に満ちた論文。
情報通信技術(主にインターネット)の進歩によってアイドルを巡る状況が被った変化を整理し、そこからあぶり出されてくるアイドルとファンの関係、あるいはアイドルを愛するということを原理的に考察しており、読後の昂奮には大きなものがあった*1
インターネットはアイドルにもその身振りに大きな変容を強いることになる。今や大多数のアイドルはブログを書き、twitterをし、google+に参加している。アイドルはテレビメディアに出演しながら、同時にインターネットメディアにも現れる。前者の姿が「表の顔」だとすれば、後者は「裏の顔」を、つまりプライベートな日常を露わにしているのだ。メイヤンによれば、これまではアイドルがブログを持って「裏の顔」を曝け出すことに対してはファンから「アイドルの幻想が崩れる」というような反発があったという。しかし、公式ブログが一般化するにつれそうした反発も薄らいでいく。それも当然だろう。ブログだけではなくtwittergoogle+にアイドルが積極的に参加することで、ファンはアイドルと(一方的にであれ)コミュニケーションを取ることが可能になったのだ。さらに、ブログのコメント欄ではファン同士の交流が生じ、アイドルもファンに対して「いいね!」や「ペタ」を返すことで(消極的にではあるが)応答する。そうしたアイドルとファンの関係を深める(ような錯覚を起こす)場がインターネット空間に生じているのだ。
ところが他方、インターネットメディアの発展は必ずしもアイドルにとって喜ばしい結果ばかりをもたらしたわけではない。メイヤンが「アイドルの危機」と呼ぶのは、インターネットにおいて暴露されるスキャンダルである。あるAKB48のメンバーは、彼女のプライベートtwitterアカウントが発見されたことからスキャンダルが発覚し、AKB脱退を余儀なくされた。プリクラやスキャンダラスな画像がネットに流出し、アイドル引退に繋がる例もある。

ブログを始めとしたネット時代の新しいメディアでは、主にアイドルは「裏の顔」を積極的にプロデュースすることでファンの欲望に応えてきたが、ネットはアイドルが本当に隠しておきたい事情をも丸裸にする力を持っている。アイドルになる以前の個人的なブログ等に残された情報はあっという間に検索されてファンに見つかってしまい、たとえ削除したとしてもキャッシュやアーカイブが残されている。一度ネット上に公開された情報を完全に消し去ることは非常に困難である。現役アイドルがたとえプライベートアカウントを非公開設定にしていたとしても、その情報が完全に外部に漏れない保証はどこにもない。

こうした「アイドルの危機」に対して、アイドル・事務所(運営)側は様々な方法で危機を乗り越えようと模索している。古典的にはスキャンダルを無視するという対応もあり得るが、いまやプロデュースサイドではこうした「危機」をむしろ取り込んでさらなる人気を獲得しようとするような方策を講じているのだという。例えば、AKB48が参加したことで話題になったgoogle+では、運営側による検閲なしにAKBメンバー同士が自由にコミュニケーションを交わし、さらにその中で自身のスキャンダルをうまく「ネタ」化して振る舞うアイドルが現れた。またこれまでアイドル/ファンにとって悪の象徴であった秋元康までもAKB48に対して同等のコミュニケーションをとっていることで、秋元自身もAKBのファンであったと錯覚させるような効果をもたらした。

Google+では、アイドルのみならず、本来であればアイドルを指揮管理している運営までもがファンに「解釈」されうる存在となり、ファンにとって心理的な「ファン主導」が成立しているのである。運営の象徴だった秋元氏がファンにとってアイドルとして受け入れられた、あるいはファンと同等の立場になったとファンに思わせることに成功したことによって、Google+上でファン/アイドル/運営の三者は強固な連帯を得ることに成功した。端的に集団の母数という点から見ても他のアイドルには太刀打ちできない戦略である。

またメイヤンによれば、「アイドルの危機」自体を自らのアピールポイントにして、露悪的に「アイドル」という商売形態を演じる「カウンターアイドル」なるものも登場しているという。AKBNOというグループは、例えばAKB48が揶揄されてきたような「売上至上主義」を逆手に取って公にそれを掲げ、売上によってメンバー内の序列を決めるという戦略をとっている。またBiSというアイドルグループは、全裸で樹海を駆けまわるPVや流出プリクラ画像を盛りこんだPVを発表し「アイドルのタブーを踏み越えアイドルの限界外へと逸脱し続ける姿勢」を売り物にしている。こうした炎上マーケティングに近い戦略をとる「カウンターアイドル」は、極めて逆説的な存在である。というのもアイドルがこれまでの「アイドルらしさ」を裏切り続けたとしても、ファンがそこについてきているからだ。
・・・だが、そうだとすれば、一つの根本的な疑問が浮かんでこざるをえない。アイドルがアイドルたる理由、アイドルのアイドル性とはいったい何なのか。より精密に言えば、醜悪な姿、「裏の顔」を晒し続けるアイドルに対してさえ、それを「アイドル」として承認し、受け入れ、そこに魅力を感じてしまう理由は何か。
この問いの補助線としてメイヤンが考察するのが東京女子流ustream戦略である。ustreamによる中継は、ときに「ダダ漏れ」と呼ばれることもあるように、スマートフォンやアイフォンから編集を通さずに行われ、その場の雰囲気や情報を荒削りに映し出す。そこには撮影者が意図しないものやコントロールできないものが不可避に映しだされる可能性がある。それゆえ、アイドルがustreamから生中継を行う場合、そこには一定の利益とともに大きなリスクが生じることになる。それは「アイドル本人や運営側はもちろんファンですら望んでいないアイドルの姿が映し出されてしまう危険性」である。つまり、意図せざる「裏の顔」が生々しく映し出され、それをファンがアイドルの「真の/本来の姿」であると受け取ってしまう可能性が存在するのだ。
ところが、メイヤンによれば、そのustream中継を積極的に活用し人気を獲得しているアイドルグループが存在する。それは東京女子流である。東京女子流は、しかも、カウンターアイドルと違って露悪的な売り方をせず、アーティストよりの上品なイメージ戦略で売り出しているのだ。それにもかかわらず、「裏の顔」、意図せざる場面を映し出すはずのustream戦略によって東京女子流は成功しているのだという。
その理由をメイヤンは、「モードの変化」によって説明する。人はカメラの前に立たされると否が応にもカメラを意識し、自覚的に振る舞ってしまう。カメラ無しの場合と有りの場合によって人は「モード」を切り替えているのだ。アイドルに関して言えば、カメラの前が「表」のモードであり、カメラ無しの場合が「裏」のモードだということになる。ustream中継においては、媒体が大仰でない場合が多く(スマートフォン、アイフォン)、カメラをカメラとして意識させないがために、モードの切り替えに「歪み」が生じてしまう。その「表」と「裏」モードの歪みは、ustreamによって増幅され、見る者に刺激を与えるが同時に嫌悪感をもあたえうるのだ。
ところが

東京女子流は12歳頃から徹底して、画像や映画といった後に修正されうるメディアではなく、その瞬間に全世界に生中継されるustreamというメディアに接続されたカメラデバイスに囲まれてアイドルとしての道を歩み始めた。ustreamによって全世界と接続され続けるという経験によって訓練された身体性を持つ彼女たちは、実は特殊な存在と言えるのではないだろうか。メディアによって身体性を増幅させるアイドルの申し子とも言える彼女たちは、カメラの前で「訓練されたアイドル的振る舞い」を行うというよりも、歳相応にごく自然な、それこそ先ほど述べた「ピュア」な少女性を帯びているように見える。つまり、カメラの前でモードの変化が起きているようには見えない点に特徴がある。これはカメラの存在を気にしていないというよりも、カメラの前で「自然」(とファンに思わせるよう)な振る舞いを行う技術を無意識のうちに身に付けているということではないだろうか

つまり、東京女子流はカメラの視線を内面化しており、表と裏というモードの区別自体を無化して表のモード自体が裏のモードでもあるように規律訓育された身体を持つ、というのである。一般的なアイドル――テレビ・ステージ出演において「表」のモードを持つアイドル――にとって、ustreamはブログやtwitterなど未だ制御可能な「裏」のモードを侵食し、「真の/本来の」モードを暴露してしまう危険性を孕んだメディアである。つまり、ustreamはアイドル自身も統御不可能なモードの歪みを表出させてしまうメディアなのだ。しかし他方、東京女子流ustreamの視点を身体に内面化することによって、テレビ出演/ブログ/ustreamという区分ごとにモードを切り替えずに済んでしまうような規律訓育された身体を持ち、そのことによってustreamが生み出しかねないモードの歪みに対応しているのだ。それゆえ、東京女子流ustream中継には、アイドルや運営だけではなく、ファンさえもが望んでいない醜悪な「裏」の姿をアイドルがさらけ出すことがない「安心感」があり、それが人気につながっているのだとメイヤンは指摘する。
ここから――はっきりと書かれてはいないが――分かることは、全てのアイドルが東京女子流のようにカメラの視線によって規律訓育された身体を持つべきであり、それこそがアイドルのアイドル性なのだ、ということではないそうではなく、アイドルのアイドル性にはファンの欲望(とその実現)が欠かせないということである。確かに、ファンはステージ上の、つまりは「表」のモードにあるアイドルの姿を目撃し享受したいという欲望と同時に、その「裏」のモードを暴きだしたいという欲望を持っている。だが、その(おそらくほとんどすべての人が持つ)窃視欲とでもいうべき願望は、醜悪であればあるほど叶えられるというわけではないのだ。ことアイドルに関して言えば、アイドルの「裏」のモードは、いくら「裏」であるとはいえ、ファンがアイドルに対してもつ「あるべきアイドル像」を決定的に破壊し、破壊する以上に嘔吐さえ催しかねないようなものであってはならないのである。言い換えれば、アイドルの「裏」の顔は、アイドルが「表」の顔の下に隠しているだろうとファンが期待するようなものでなければならないのである。だが、その「裏」のモードが、あからさまに演出されたものであれば、それは「表」の顔と何ら変わらない面白味のないもの、あるいはむしろその過剰な演出に嫌悪さえ持つようなものになってしまうだろう。したがって、アイドルの「裏」の顔は、当然「表」のモードから逸脱した予想外のものでなければならないが、同時にそれはファンが欲望できる程度内に収まっていなければならないのだ。
つまり、アイドルがアイドルとして存在するためには、「裏」のモードにもファンの欲望が取り込まれていくほどの柔軟さが必要なのである。アイドル側だけではない。ファンもそのことについて(無意識にも)自覚的なのだ。盗聴音源が流出しても、それを皮肉交じりに「キャラ化」して受容したり、あるいはそもそもそのキャラ化を前提にしてその音源を編集して受容するということがあるのだという。また運営側も、フェイクドキュメンタリーや現実と地続きの映画を発信していくことで、「裏」の顔をすべて制御するのではなく(そうであれば「表」と何ら変わりなくなるだろう)、むしろ自覚的にアイドルの「裏」をファンに対して切り開くようなあり方へと変化してきている。醜悪な「裏」の顔がさらけだされることで危機にさらされるのはアイドルや運営だけではないのだ。アイドルを応援するファンにとっても、「アイドルの危機」は危機的な事態なのである。

実体のないキャラクターあるいは「ゴースト」と違って、アイドルには実体があり、明日には突然引退してしまうかもしれない。ネット上の匿名のアイドルファンたちは、アイドルを自分たちが楽しいように都合よく解釈しキャラクター化していくだけでなく、生身の不確定な存在からこぼれてくる強烈な一撃に対しても、なんとか身を反らしてファン心理をへし折る直撃を回避しつつ、それを肯定的に読み替えていくというアクロバットな営みを集団で行ってきた。

アイドルは二次元のキャラクターと違って生身の肉体を持ち、それであるがゆえにテレビやステージで見せるのとは違った「裏」の振る舞いを見せる。その「裏」はファンにとっても魅力的なものであり、それは二次元のキャラクターとは違った「アイドルのリアリティ」、物質的なリアリティにほかならないだろう。だが、メイヤンが「アイドルとしての実存」「アイドル的リアリティ」と呼ぶものは、それゆえに/にもかかわらず、「突然の引退によって」「別のレベルで不意に切断されうる」のだ。その「危機」――アイドルにとって以上にファンにとっての――をなんとか回避するために、アイドル/運営/ファンは、これまで述べてきたような戦略を模索し続けているのである。そしてそこにはファンの窃視欲を暴発させて「引退」へと至らせるのではなく、かといってアイドルをすべて「表」の顔だけに管理するというのでもなく、その「裏」をファンが欲望し解釈し享楽できうる範囲に収めるような「プラットフォーム」が必要だと、メイヤンは指摘するのだ。それこそが、最後の章題にふされた「プラットフォームとしてのアイドル」という言葉にこめられた含意である。
メイヤンはこの論文で、アイドルが何か、アイドルのアイドル性とは何かという問いに、何らかの積極的な記述によって実体的にとらえること(「アイドルとは〜〜であるべきだ」)を避け、それをファンの欲望の側から捉え返そうとしているのだ*2。事務所がアイドルを何か実定的に(例えば「歌って踊れる」や「売上至上主義」や「クラスのマドンナ」という風に)売りだそうとしても、その戦略はアイドルが持つ「裏」のモード、アイドル的リアリティによって揺るがせにされ、ひどい時には引退によってアイドル的リアリティが自壊する場合さえある。そうではなく、その「危機」を運営とともにファンが避けるためには、アイドルの「解釈の複数性を確保し、多数の解釈者=消費者を呼び込むことで、土台となるアイドル概念自体の信頼度を高めてい」かねばならない。それは事務所がトップダウン式にアイドル像を設定するのではなく、ファンの欲望、ファンのアイドルへの「愛」を取り込んでいくような、自由を持った「プラットフォーム」である。「自分が信じたいものを信じる、ファンが全員そのような勝手な思いを持ちながらも、それらの欲望を引き受けるアイドルが、一人の人間として、そして同時にアイドルとしてあり続けてくれる」こと。アイドルはプラットフォームとして、ファンの多様な欲望に開かれながらも、その欲望が具現されて見えるような一つの身体を持つことによってそれを実現するのだ。
これまで多くの事務所や運営(そして一部の批評家)らがアイドルに求めてきたような問いかけ、つまり「どのようなアイドルが好かれるのか」「アイドルはどうあるべきか」という問いかけは転倒したものなのだろう。ファンがほかでもないそのアイドルを愛しているという事実があってはじめて、その問いかけが可能になるのであり、その逆ではない。まずはその愛の事実を直視しなければならない。メイヤンがこの論文の最後でなそうとしているのは、そうした根源的な洞察だと言える。アイドルはそのアイドルを愛するファンが欲望する「「ありえたかもしれない」性質や可能性を全て内包する「器」」として存在する。アイドルが愛されている事実は、何らかの積極的な記述によっては説明されないし、そうすれば「裏」のモードによって愛の「危機」を招いてしまうだろう。そうではなく、なぜかわからないがとにかく惹きつけられるという不可解な事実から出発し、アイドルを大多数のファンのそれぞれがもつ「わがままな欲望の受け手となるような「慈悲深い」存在」として定立しなければならないのだ。アイドルが生身の身体においてファンの多様な欲望を結びつける「器」として、プラットフォームとして存在することができたとき、そのときにはじめてアイドルは「危機」を回避しながらも自らの「アイドル的リアリティ」を保持し続けることに成功するだろう*3*4

人々の欲望を引き受ける「器」としてアイドルを見たとき、ファン全体に対してそれぞれの勝手な解釈や欲望が肯定されることで、数多の欲望は全体として「愛」として成立しており、それは同時にアイドルがアイドルとして成立していることに他ならないのだ。このとき、アイドルは人々の様々な欲望を喚起し許容するという意味で、ファンに対してプラットフォームとして成立している。
人々の個人的な感情やコミュニケーションの果てに生まれた無数の欲望を統合したアイドル像は、解釈の複数性そのものである。そのようなアイドル像は、生身の人間たるアイドルと相互に影響を与えながら絶えず変容し、時に崩壊してしまう。解釈の複数性が許容されアイドルがアイドルとして存在可能であること、つまりアイドルを肯定することとは、アイドルとファン、あるいは運営やコンテンツ作成者も含めたアイドルを巡る人々の間で、新たな形で愛の不可能性に挑戦する営みと言えるのではないだろうか。

アイドルのリアリティを構成するものをファンの欲望と結びつけつつ、インターネットメディアにおけるプラットフォーム戦略から読み解こうとした点で、この論文は極めて刺激的なものになっていると思う。

アイドル領域Vol.4

アイドル領域Vol.4

*1:このレビューでは具体的な記述はだいぶ端折っているが、そうした記述こそこの論文の醍醐味でもあるので、気になった方はしたのamazonリンクから買えばいいよ

*2:このあたりの説明が不明瞭であるために、最後の結論がどうしてああいう形になったのか分からない人たちが出るのだ

*3:大澤真幸の「愛の不可能性」の議論を引きながらも、メイヤン論文はこの点で「個別の愛」の議論から離脱する。大澤の議論が愛を固有名の議論から解釈したのと違って、ここでは集団的な意識における愛が問題になっているのだ。例えば、ナショナリズムを引き起こす共同体や伝統は、何らかの具体的な性質があるからナショナルな愛を共同体の成員に引き起こすのではない。そうではなくそこに何でも読み込めてしまうような「寛容な」リアリティを持っているからこそ、どのようにも欲望できるのである。しかし、ともあれそこには何故か訳もわからず愛着してしまったという事実が根源にあるのだろう。こうした議論は、ラカンを引きながらラクラウが論じているようなイデオロギー論とむしろ親和的である。ラクラウはそこで、「正義」や「平等」といった理念が階級的関係から切り離されたポストマルクス主義的状況において、様々な理念を束ねることができる「クッションの綴じ目」を創りだしていくことによって人々を政治的に動員するしかないと論じている。

*4:しかし同時に、アイドルへの愛と、誰か特定の人への愛というものは果たして同じ地平で扱いえるものなのかという疑問も起きる。確かにアイドルが多数のファンの欲望を包括するものとして、言わば空白のリアリティを持ったものとして現れているのは、大澤の愛の議論を集合意識へと拡大することで説明がつくかもしれない。しかし、その時の個々のファンの「愛」は、ファン個人の実存的過程において誰か(アイドルでもあるかもしれないしそうではないかもしれない)を愛することと同じようなものなのだろうか。同じだと言い切る勇気があるか。