5-26

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存在忘却の日。
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昼過ぎ用事で大学へ。のあとMゼミでYさんの熟議民主主義論の発表を聞く。熟議理論が直面している困難な状況が的確に整理されていた。が、最後の「生活世界の植民地化」の話には納得がいかず。のあと菱田屋でYくんの就職祝いを兼ねてご飯。菱田屋やっぱり素晴らしい。金目鯛の煮付け定食。
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夕方バイト。高3のふざけた輩に怒り心頭。
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ゲーテ。昼某君が東京へ来たので渋谷でぶらぶら。代々木公園で寝そべり、渋谷で服をチラ見し、最後はユーロスペースで『ル・アーブルの靴みがき』を見る。途中ちょっと寝たところはあったのだが、概ね素晴らしい。あの独特の色合いと音楽はなんだろうか。
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昼に大学へ行き事務手続きを済ませる。のあとバイト。のあと新宿でお見送り。風邪ひき心配。
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何か分からないが非常に疲弊してしまいゲーテ寝とばす。呆然としながらメイヤン論文のレビューを書く。のあとバイト。のあとバイトの先生らと飲み会。ずっと飲んでいたかったが前日までの疲労と次の日の学会のために途中退席。帰ってから即座に眠る。
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昼から学会。国学院遠い。穏やか。先輩に会い励ましてもらうなど。あと、少々(というか結構)苛立たしいことがあって、今書きながらもまだイライラしているのだが。社会思想史や概念史、そして系譜学というのは、もちろんコンスタティブには歴史研究なわけだが、同時に言わばパフォーマティブに現実に介入しようとする試みだと思う。過去の概念/理念のポテンシャル(とその興廃)に光を当てることで、現代が自明視している概念を脱臼させ、ありえる可能性に当該概念を押し開く試み。そんなことさえ理解できないのなら一体何を読んでいるのかと問いたいところだし、そもそもコンスタティブにだって、現代を理解するために(そこと地続きの)過去を理解する必要がある、という当然のことを分かっていない人がいることに愕然とした。まあ、そういう人はほっとけばいいんですがね。優れた理論家は同時に自らの独自の思想史的立場を持っているのだ。
親が東京に来ていたので晩ご飯を食べる。渋谷35段屋。満足していたみたいで、まあよし。