'12読書日記36冊目 『ヒュームと文明社会』坂本達哉

ヒュームの文明社会―勤労・知識・自由

ヒュームの文明社会―勤労・知識・自由

378p
総計10054p
大変な名著。分かっていたことだが今の時点で読むのは遅すぎた。いわゆる社会思想史の本だが、ヒュームの思想を同時代のスコットランド-イングランドの思想空間の中でのみならず、その政治経済状況においても明らかにしたもので、僕が書きたいカントの社会思想研究とはこういうものだと強く思った。ヒュームの社会思想・政治思想的著作はかなり意識的に大衆へ向けて書かれており、そのため平易な英語で分かりやすいように思われるのだが、個々の議論は相当に複雑で周到に設計されており、それをあますところなく明確に提示していると思う。
ヒュームの社会思想においてはいまだ「経済」は「政治学」の範疇にあり、それは時に(スミスと比較された上で)彼の理論的弱さだと見られることもあるが、僕はむしろそこに惹かれる。
ヒュームは『人性論』において経験的観察という方法に基づく因果連関の探求を方法論的に提示し、懐疑の眼差しによってその「因果連関」をあくまで習慣の問題だとした。つまり、恒常的に因果連関があるように思われるものでも、それは長い間のconventionにすぎないのであり「仮説」の域を出ない。そうした理性的懐疑は、理論先行的に頭でっかちになって現状分析を蔑ろにする「哲学」へと向けられていたといってもいい。彼は哲学に変えて、カント的に言えば自然科学の方法論的基礎付けをしようとしたのだ。それはすなわち、因果の経験的観察と常なる懐疑によって事物の自然-本性をあきらかにするという方法論的深まりである。そして、ヒュームはその方法論を持って人間社会に固有の自然性の解明と説明へと向かうのである。
確かに彼の『政治論集』には貨幣論や貿易差額などの重商主義批判的経済学の端緒が見られるが、それらをヒュームは個別の論点として、つまり経済「学」として定式化しようとしたのでもそれだけを主題としたのでもなかった。それらの分析は人間社会、すなわち政治と経済が交錯する社会の分析の一端に過ぎない。だからヒュームにとって「政治学」の中においてこそ経済事象は論じられねばならなかったのであり、そこで批判にあげられるのは、党派的イデオロギーにまみれて社会を認識しようとしない「政治家」なのだ。「政治は科学になりうるだろう」という示唆的な論文の中でヒュームが論じているのは、政治は人間社会、特に「文明社会」civilized societyとして勃興しつつあったイングランドの実際の社会における現状の因果関係を、冷静にかつ公平に観察しようとしなければならないということだ。本書は、この「文明社会」への観察の眼差しにおいて、いかにしてヒュームがそれまでの古典的共和主義者や通俗的ウィッグ主義を乗り越えていったのかを、はっきりと示している。
政治-統治が自らのイデオロギーに染まったまま、社会の現状分析と自らの政治的「決断」が引き起こすであろう帰結を無視した政治家があまりに多い今、本書の詳細な「社会思想史」研究は広く読まれるべきだと思う(というかおそらく広く読まれているはずなのであって僕が単に読むの遅すぎてうんぬんかんぬん)