'12読書日記43冊目 『ヒューマニティーズ 社会学』市野川容孝

社会学 (ヒューマニティーズ)

社会学 (ヒューマニティーズ)

186p
総計11935p
本書は「社会学」の歴史をオーギュスト・コントから説き起こし、「社会」とその学である「社会学」がいかような変容(と忘却)を被ってきたのかを明らかにしようとする。コントに続いて医療社会学、スペンサーを辿ることで得られる、言わばマックス・ヴェーバー以前の社会学の風景は、現在の社会学とは非常に異なったものである。筆者はそうした社会学の、今は忘れられた原風景に「社会」概念の意味の充実を開いてみせるのである。本書は、しかし、これまでの『社会』や『身体/生命』と違って、筆者自身の社会学的実践の方法論を開示してもいる点で非常に興味深く、また勇気づけられもする。
社会学の黎明期において「社会学」に含意されていたのは、まずは政治経済学との緊張関係であり、連帯や平等、差異や自由という価値である。社会学における「社会」は、言わば現実の政治に対して働きかけ改良しようとする概念だった*1。しかし、やがて社会学はそうした価値負荷的な「社会的なもの」から自由であろうとするようになる。つまりスペンサーやウィリアム・サムナーは「露骨な自由主義」をもって、それまでコントや医療社会学が実践の中から取り出してきた「社会的なもの」の価値、「社会化」の要素を否定しようとするのである(と同時に、そこには優生学や植民地政策が流入してくる)。
こうした流れを踏まえて、本書の最後の章で――そこは僕が最も面白く読んだところだが――「社会学リベラリズム」が論じられることになる。「社会学リベラリズム」というのは筆者の言葉である(と思う)が、それはスペンサーらの社会学的な自由主義とそれは方法論的な意味において異なっている。筆者が社会学リベラリズムに代表させるのはマックス・ヴェーバーである。ヴェーバーは価値自由という言葉において、社会(科)学が「なにをなすべきか」について語ることを禁じた。それは、かつての社会学の原風景が自らの学をもって現実に向きあい改良的に介入しようとしたことを禁じることでもあった。そして、さらにヴェーバーは『プロ倫』において「社会的」なものの意味を大きく変え、これまで社会学が「社会」という概念に負わせてきた価値をも取り払ってしまうのである。それは『プロ倫』のある注の中に現れる(このことは僕は全く気付かなかった)。

ここで言う「社会的」は、この言葉の持つ現代的な意味合いを一切持っておらず、単に政治的、教会的、等の共同体組織の内部における活動をさすに過ぎない。

ここで言う「この言葉の持つ現代的な意味合い」というのは、当時のドイツでさかんに論じられた社会政策や「社会的な国家」のことであるが、ヴェーバーはそうした限定から「社会的」という言葉を解き放つのである。そしてこの言葉は、「おそろしく空虚なものになった」。それは「単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人々との関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為」とされる。そしてこのように意味を失って空虚になった代わりに「社会的」という言葉は、その外延を広げて、非常に多くのことを包摂するようになる。だが、そもそも「社会学は価値自由でなければならない」というような言明は、それ自体でひとつの価値判断であることを免れえない。このことを、筆者はパーソンズによるデュルケームアノミー概念(と自己本位主義的自殺)の説明をアナロギーにして解説している。自己本位主義的自殺は、個人主義という規範によってなされねばならなかった自殺であるのに対して、アノミー的自殺は、そうした「規範が存在しない」という「社会的事実」として想定される。だが、筆者は、アノミーは単に規範が欠如した状態とは異なっていると言う。というのも、それもまた「社会的事実」として自殺を導く限り、「規範の欠如」という規範を負って存在していることになるからだ。「社会学リベラリズム」は、まさにこうした意味で「アノミー」であると筆者は言う。

社会学者と社会学は、社会の他の人々と一緒にその社会の中に存在する。その人たちの上にいるのでも、下にいるのでもない。ただし、その社会にとってのアノミーとして存在する。つまり、人々が自明視する規範に対して、本当にそれだけなのか、なぜそうなっていて、どうなればそれが別のものになりうるのか、何が忘れられ、省略されているのか、等と問いながら、その社会の規範を偶有化する者、それを他でもありうるものとして揺さぶるものとして存在する。

こうした「社会学リベラリズム」をヴェーバーのなかに見いだせるのかは、私には分からないが、ともかくこれは筆者による力強い「社会学リベラリズム」宣言であり、「社会学は何の役に立つのか」という学の自明性の問い直し――そしてそれは社会学がかつて現実の変革に対して関わりを持ったところから始まったということを明確に意識した切迫感のある作業だが――に他ならない、と思う。社会学の黎明期における問題意識を共有しつつ、それをヴェーバー以降の社会学の流れの中に捉え返そうとする立場の表明であるとも感じられる。
だが筆者の「社会学リベラリズム」は、とはいえそれがリベラリズムである限りにおいて、リベラリズム同様の一つの困難にも突き当たるように思われる。
アノミーとのアナロギーに続けて、筆者は、社会学リベラリズムを、ルーマンの異議申立て運動のアナロギーとしても理解しようとする。ルーマンによれば、異議申立て運動は「それは、あたかも外からなされているかのように生じる。……それは、社会のための、しかし社会に反対する責任として表現されるのである」。冷戦崩壊後、自由主義の勝利は、冷戦下における価値の複数性(二大対立)を失ってしまうという危機に陥る。社会学リベラリズムは、こうした自由主義の危機に対して、「社会のために社会に反対」しなければならないのだ。だが、それはあたかも外からなされたようでありながら、同時に社会の中におけるものでしかないという逆説を抱え込む。そして、この社会への内在性ゆえに、社会学リベラリズムは、シュミットの「政治的なもの」――それは友敵理論を通じて対立を正当化し、敵の殲滅と友の同質性を確保しようとする――に対決しなければならないと、筆者は論じている。というのもシュミットが考える政治は「そのような社会と社会学リベラリズムを消滅させうるし、実際に消滅させたからである」。
しかし、だとすれば、「社会学リベラリズム」はリベラリズム同様の困難に突き当たることにならないか。つまり、リベラリズムにおける「不寛容」の問題にぶち当たらないか。政治思想の言葉で語り直せば、リベラリズムに敵対的な価値を持つ文化に対して、リベラリズムはどのように向き合えばいいのか。筆者は、シュミットと「対決しなければならない」と述べている。「対決」がどのようなものなのか、筆者は明確に説明を加えてはいない。ヴェーバーによって開かれた社会学リベラリズムの可能性を押し広げようとしたとき、その「対決」は何を意味するようになるのだろうか。かつて渡辺一夫は「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか?」という問いを立て、否、と答えた。

社会的という言葉に関する社会学的忘却を解除して、その言葉を政治的可能性とともに人々に与え返すこともまた、社会学がやるべき仕事の一つだと私は考えている。

と述べる筆者は、「政治的なもの」にどのように「対決」するのだろうか。もしかすると、こうした読み方や疑問は、うがったものであるかもしれない。筆者が社会学(や障害学)において、社会に対して実践的に、政治実践的に関わりを持ってきたことを考えるなら、とくにその気持ちを強くする。

*1:それは筆者の重要すぎる著書『社会』のなかにより詳しい