'12読書日記48冊目 『大杉栄評論集 叛逆の精神』大杉栄

叛逆の精神―大杉栄評論集 (平凡社ライブラリー)

叛逆の精神―大杉栄評論集 (平凡社ライブラリー)

269p
総計13180p
初めて読む大杉栄。極めて峻烈な人だというのが第一印象。しかし、大正の初期にここまでよく西洋政治思想史的な流れを踏まえてものを考えることができたものだ。驚嘆すべきことだ。
「美は乱調にある」という有名な言葉の意味は、考えていたよりも過激で、政治思想的な用語に置き換えて見るなら、大杉栄の思想は、ロマン主義的なアナーキズム、政治を自己表現の美学の場とするようなものとなる。自己表現の美学こそが、叛逆の精神を支えており、叛逆によってこそ美が、すなわち自己が完成する。アナキストであり、個人主義的・ロマン主義的な美学の政治的追求者であった大杉が、どのように社会動員へと向かうのかということはなかなか用意には両立しがたい問題だと思う。
大杉の政治思想には、今日にも通用するような問題意識が含まれており、その一部が表明されているのが「個人主義者と政治運動」という小論である。この小論は、文壇から衆議院に立候補することを表明した馬場孤蝶とそれを支持する生田長江、安成貞夫に向けて書かれたものだが、そこで彼らに激烈に問いただしているのは、「政治とは何か」「政治とは議会制民主主義か」という根源的な問いである。

代議政治そのもの、もしくは議会そのものは、国民の自由の精神と叛逆の精神とによって、専制君主の手からもぎ取ったものである。そして、あらゆる政治的自由もまた、同じく国民の自由と叛逆との精神によって、この代議政治もしくは議会からもぎ取ったものである。かつ、一旦議会からもぎ取ったそれ等の政治的自由もまた、それが事実上に施行されもしくは継続されんがためには、同じくまた国民の自由と叛逆との精神によって、不断に防護されなければならぬものである。この自由を渇望し、もしそれらを得られなければ、もしくはそれを奪われそうになれば、ただちに叛逆の行為に出でんとする用意のない国民は、或は特にかくの如き自由と叛逆との精神に充ち満ちた一階級のない国民は、議会の有無にかかわらず、また政治的自由を保証する法律の有無にかかわらず、本当の自由を持つことができない。[…]極めて卑近な例をあげれば、巡査がコラコラと呼んでも相変わらず市民がペコペコ頭を下げている間、巡査は永久にコラコラをつづける。

つまり、代議制民主主義に立候補して国家を変革しよう、などというのは視野狭窄でしかない、と彼はいうのである。代議制民主主義は「政治」なのではなく、むしろ「政治」とは、代議制議会から市民が「叛逆」において、あるいは「叛逆」の可能性をちらつかせてみせるということの内にのみ存在するのだ。しかし代議制民主主義においては、数千、数万の市民がある一人の代議員を選出するだけで、しかもその代議員は政治的な問題についての決議を主張するのではなく、議会において談合しそれを法律として国民の上に課してしまうのだ。

かくして彼等は極めて複雑な人間生活の全部を決定し、選挙人は自己の主権の名の下に実は棄権を強いられることとなる。

それゆえ「参政権は人間としての棄権」にほかならないというのだ。こうした思想を共和主義的に捉え返すことが可能だろう(あるいはそれをラディカル・デモクラシーと言い換えても良い)。事実、多すぎの政治的理想とは、各個人がお互いに支配することなく合意し、その個人の集合体である共同体も支配することなく合意する「個人も団体も全く自治の連合制度」である。そして、大杉はその理想の実現をサンディカリズムに求めたのである。こうした思想は、どこに受け継がれたのだろうか。日本政治思想史に疎い僕には分かりかねるが、大杉栄の根源的な政治の問い直しはまともに受け止める必要があると思う――それが100年ほど前のものであれ、かれの美学的なアナキズムがそうしたアソシエイショニズムと呼びうるような思想にどのように媒介されるのかは問題含みであるとしても。