'12読書日記56冊目 『批判的主体の形成』田川建三

批判的主体の形成[増補改訂版] (洋泉社MC新書)

批判的主体の形成[増補改訂版] (洋泉社MC新書)

318p
総計15364p
1970年に出版された評論集。田川建三という人は日本の優れた宗教学者・聖書学者であるが、同時に極めて優れた左翼的思想の持ち主でもある。本書は、筆者が全共闘運動に与した「造反教官」として国際基督教大学(ICU)を不当解雇された後一年の間に書かれたもので、モチーフはマルクスの「宗教批判はすべての批判の前提である」という言葉である。そもそも、宗教学者が「宗教批判」を行うという事自体、驚くべきことのように思われるが、そのことは筆者が護教的な学者などではまったくなく、むしろイエスというひとりの男の意義を彼が生きた歴史の中に置いて把握しようとする優れた研究を行なってきたということを省みれば十分に理解できるだろう。イエス・キリストと「キリスト教」を同一視せず、むしろ後者に吸い上げられる以前のイエスの思想と動きを把握しようとする一連の研究がそれだ。
なぜ、宗教批判があらゆる批判の前提でなければならないのか。この言葉に込められた意味は大きい。筆者はマルクス主義者以上にマルクスに忠実な宗教学者だ。マルクスは『ユダヤ人問題によせて』や『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で、宗教は現実の悲惨さを観念的に投影して作り上げられたものであり、しかもその投影の仕方は歪んだものである、と述べた。つまり、宗教的意識は悲惨で困難な現実に直面したとき、その現実そのものを変えようとするのではなく、現実を観念のレベルに――原罪や恩寵、終末といった仕方で――移し替え、そうした観念こそが現実であるかのように偽るのである。

そもそもキリスト教は現実社会の問題を現実社会の問題だとは思っていないのだ。問題そのものを、観念世界の問題として取り扱っているだけである。いや、問題そのものの存在をまるで認めようとせず、ただ、それを無自覚的に屈折して観念世界に投影し、その屈折した投影についてのみものを考えて、その「解決」を同じく観念世界において提供しようとしているのである。

このような宗教の観念的な(偽)の解決と、市民国家(ブルジョア国家)の擬態の同型に注目したのが『ユダヤ人問題』のマルクスだった。確かにフランス革命後、すべての人には市民としての権利が与えられ、その意味で平等だということになっている。だが、現実の市場社会においては圧倒的な非対称が――資本家と労働者の非対称が――厳然と存在している。それゆえに、マルクスは宗教批判こそがあらゆる批判の前提とならねばならないと喝破したのだった。田川が優れた理論的洞察を発揮するのは、このマルクスの論理をマルクス主義者以上に正しく理解しているからである(本書では猛烈な平田清明批判が繰り広げられている)。それゆえ、田川は正しくも、その「宗教批判」の意味を信仰心の篤い者らにのみ向ければことが解決するだとか、宗教などは科学によって吹っ飛んでしまって意味が無い、などという安易な発想を拒絶する。そうではない。国家・資本という社会の形態が宗教的であるのであれば、それに対する「宗教批判」は、むしろ宗教心を持たない市民の無意識へとメスを入れねばならない。つまり問題は、「そういう教義体系から出てくるせりふなど腹の底ではゼンゼン信じてもいないくせに、しかも本質的には同種の宗教的発想に身をゆだねているところの民衆の観念世界を批判的に解剖する方法を確立すること」なのだ(大澤さんのアイロニカルな没入、というのと非常に近い)。
筆者の闘争記でもあるICUでの全共闘の記録や、丸山圭三郎とのエピソードなども興味深いし、40年前の本とはいえ、非常に理論的な示唆に満ちた勇気づけられる本だ。